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冊子『山と川のあいだで <年中行事編>』を販売しています。神河町では 観光交流センター(カーミンの家)さん、ぎゃらりー&喫茶 やまださん、福崎町では りんごの木さんです。 無い場合は deity_river @excite.co.jp までご連絡ください。 ひろがるせかい 雲屋@植物からとり出した色で染物をされています。糸も作られています。 ふれあいぎゃらりー&喫茶やまだ@山田地区でぎゃらりーを運営されています。このHPの更新をお手伝いしています。よくここへお茶しにいきます。 千ヶ峰ふもとでふれあい協議会@新田作畑地域の協議会です。 はりこ工房 葉紙屋@「杉原紙」で有名な多可町加美区で、「はりこ」と「からくりおもちゃ」を作られています。雲屋さんの妹さんです。 伝兵衛@大学時代の仲間。いけ花と文章がすてきです。 無人島開拓日誌@瀬戸内海の芸予諸島ひとつの赤穂根島で、自給自足の暮らしを実践されています。いろんなもの・ことを見習いたいです。 ぎゃらり~ATMAN@自然を愛し、広い世界を見つめる画伯です。 山であそぼっ@山の博士です。いろんな山へ行かれているので、レポートを楽しみにしています。 TQFの山登りとスキーの記録@山での遊び方を一番知っているのは実はこの方なのかもしれません。 りんごの木@福崎町の市川のほとりにあるカフェ。クミコさんと出会っていきなりばちんと話があいました。 すっぴん館@染物の先生。しかし、染物だけではありません!他にもいろんなたくさんのステキな作品を生み続けられています! みゅーく♪発電所☆@「アートセラピー」について研究されているnao*popoさん。彼女の手から生み出される作品はどれもかわいすぎです! もみの木HOUSE@加東市の東条湖の近くの森の中にあるアロママッサージやさん。とっても心と身体が休まる場所です。 ちょうたり@高砂にあるネパール料理店。カレー大好きな私は、イベントで見かけるといつも食べています。 アナログ親父のブログ-自然と折れ合って@反対側の谷出身のアナログ親父さん。地元を大切に想う気持ちはお互いに負けていませんね。 但馬西国三十三番観音礼所@但州広谷庄銀山回り坂町在の西川屋守藏さん。生野と石仏情報をいつもありがとうございます。 向日葵日記@みっちゃん。本当の叔母ちゃんです。 お気に入りブログ
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兵庫県の二等三角点を目指して歩かれているYS11さんが未踏のひとつに建屋山があるという。実は、この山の麓の建屋谷地域には私の母方の親類がたくさんいらっしゃるのです。とくに、船谷集落には母方の祖母の実家があり、私にとってはとても身近に感じるところです。なにかおもしろいことが発見できるかもと思い、ついていくことにしました。
しかも、最近、船谷に行く機会がちょこちょことあり、祖母のお兄さんに山の話をうががうと、「船谷のケサカの谷の奥に『寺ヶ平(てらがなる)』というところがあり、そこはかつては船谷の大仙寺の寺跡だった。」聞きました。 他にも、いろいろ聞きましたが、まずは寺跡が気になります。これは、行って、目で確かめてみたいといけません。 4月29日。 メンバーはやまあそさん、YSさん、TQFさん、そして船谷のふたいとこ「ゆうすけ君」、そして、私こと作畑ガールです。(あ、ちなみに、ゆうすけくんとは「ふたいとこ」になるのですが、ゆうすけくんの母方の祖父と私の母方の祖母、そして、ゆうすけくんの母方の祖母と私の母方の祖父が本当のきょうだいです。ややこしい・・・。いろんな意味で、とても似ていると思います。) まずは、下山地点にある船谷の日枝神社に集合です。 ゆうすけくんと(一緒にやってきたおいさん)をみんなに紹介しました。 TQFさんは、遅れるとのことで、出発地点となる古代村で、出会いました。 古代村の巨大な奇石を見ながら、尾根を目指します。 ![]() この日はとても暑く、登り始めてまもなく、汗が出てきます。 ![]() TQFさんは半そででくるんやったと重ね着を脱がれています。 ようやく、オオカミ岩にやってきました。 ゆうすけ君は「むかし、この上にお社があった」といい(自然学校のときにこの巨大な奇石めぐりをしたそう)、みんなで見上げていると、上にはTQFさん!! ![]() その上から西を見ると、眺めがよいです。 ![]() いろんな岩を見ながら歩いていくと、途中に梯子が・・・。 ![]() わたしはこわくてへっぴり腰になって、なんとか登ります。 そののぼりきったところから西を見ると、真正面にスリガ峰(大杉山)が、その北に、1年前に御井神社と産霊神社の跡地を求めて歩いた御祓山やカカナベ峠が見えました。 ![]() 大テング岩までくると、そこからいよいよ本格的な山歩きになります。 尾根道で建屋山を目指しますが、尾根はやぶになっていたので、少しまいて、鹿の歩いた道を歩きます。 このあたりから、私は遅れだします。 やまあそさんは「山頂手前100mが激のぼりだから、この中の誰かが死ぬかもしれん」といっています。 みんなは、着実に激のぼりを登っていきますが、私はゆっくりな上にちょっと小休止。声をかけられても、返事する元気があまりない・・・。 岩の上に足を掛けると、このあたりのはもろいらしく、何度か崩れました。 そして、みんなからだいぶん遅れを取りながらも、なんとか二等三角点・建屋山につきました。 ![]() このあたりから、能座と餅耕地の谷がよく見えました。 ここでお昼になったのですが、三角点の周りは木が刈りはらわれていて日陰がなく、ちょっと下がったところの杉の木の下で食べました。 下りは三角点から北の尾根を歩き、船谷を目指します。 下りのほうは、登りほどつらいという感じではなかったです。 暫く歩くと、その麓には船谷集落がみえました。遠くに但馬妙見や山頂の白い氷ノ山も見えました。 このあたりからたくさん植林されています。船谷のおいさんも植林したし、下刈りにこのあたりにこられたそうです。(このあたりの山を知っているからこそ、船谷の山は「さがい」(急)から危ないと、何度も言われました・・・) そして、平坦地にある「毛坂」の四等三角点につきました。 ![]() 三角点からは尾根を歩いて、ケサカの谷を目指します。 その途中、斜面にへんな平坦地があり、やまあそさんが「怪しい、寺跡かも」といわれています。私はそんなに気に留めずに下っていったのですが・・・・。 その平坦地あたりで、ヤマシャクヤクのつぼみ発見。 ![]() そして、その平坦地を下ると、急に巨大な岩が現れました。 ![]() ゆうすけ君は、「これは、なにか怪しい岩やな。」とつぶやいています。 大仙寺のご住職がかかれた文章にこのようなものがあります。 船谷のてらの前をまっすぐに行き、山の中に入った道を約五キロメートル入った奥山の字ケサカの山中に無数の大岩があった。これが後に山号(岩蔵)の元になったようである。(中略)この岩の上側に平坦地があり、そこに地蔵院、壽量光院、與光寺の大寺と大仙庵の小寺があったので、ここを寺が平という。(中略)狩猟中心の生活から米作りが急速に広がり、人も寺も山を降りて平地に定住していくようになり、大仙庵もヒナタに降りてくることとなる。白鳳時代の大化年間と推察できる。しかし、ここはナナメ筋(神様の通る道)にあたっており、寺屋敷としてはよくないとの理由で、後に文政年間に現在の袖谷に移転した。地蔵院は地蔵院観音堂がその移転先と思われる。與光寺は池上の山上に移転し、後に延久元年に現在の地に下りる。 また、この岩にはこんな言い伝えもあります。 この岩の中に大蛇が住んでおり、これが抜け出るといった。船谷の人は抜けて出られると困るのでその穴の付近に梨の木の杭を打ち込んだ、このため大蛇は船谷のほうへ出られずに畑村の方へ抜け出たということだ。この出た所を蛇抜け谷といい今もあると聞く。船谷の人が杭を打ち込んだため、この部落には梨がみのらないという話もある。 この文章をちゃんと覚えていれば、この平坦地は寺跡だということがわかります。 このときの私は寺跡かな?とおもいつつ、遅れ気味だったので、いそいで降りていきました。 そこから下っていくと、激下りになります。そこにはロープが張ってあり、歩きやすい?? ![]() 下っていくと、平坦地が見えて、みんな「ここも怪しい、寺跡??」といっています。 ![]() 平坦地には桜が植わっていて、それらを取り囲むように鉄パイプの柵がめぐらされています。その周りの山の斜面に段々があります。 ![]() 前に船谷のおいさんから「ここは、畑地区のの桑畑やったよ」と聞いたことがあります。この段々畑の名残は桑畑でしょう。 また、船谷側は牛の放牧場で、牛が山を登って、畑のほうへ降りて、牛がたんぼの稲をたべて大変だったこともある」と聞いたことがあります。 そこから、峠へ降りて、船谷を目指します。 ![]() なくなった道も途中から見つかり、何とか無事に船谷集落に着きました。 山から下りてくると、村へ降りる林道がありました。その脇のウト谷には、滝があります。 TQFさんがその滝に寄って、掃除をすると、滝つぼのところがお風呂のようになっています。 ![]() おいさんからこのあたりは、牛の放牧場だったと聞いていたので、もしかしたら、牛の水飲み場かもしれません。ここに、大日如来の石碑があると聞いていたので、きょろきょろとしていたら、すぐ近くにありました。 文字塔です。 ![]() そして、袖谷の林道を降りて、集落へ降りてきました。 その途中、古くて大きなお堂がありました。 ![]() ![]() その中を見てみると、阿弥陀三尊がお祀りされています。 おいさんの話では、四十九夜念仏といって、49日間を3ヶ月にまたがらすに2ヶ月間で終わるようにその間、3~5軒が組になって、お参りをするそうです。(同じような四十八夜念仏というのが、餅耕地でもありました) お堂の脇には二体彫られた石仏もあります。 そして、日枝神社で解散しました。 後日、やまあそさんから頂いた養父町史のコピーによると、この日枝神社ももとは、寺ヶ平の西にある足谷(町史には大谷とかいてある)の突き当たりから少し上がった場所にすこし平坦地があり、それを宮山というそうです。 ![]() 日枝神社では、「お当祭り」があります。これは宮山にあったときに生まれたであろうといわれています。 宮山に伸座されていた日枝神社は、洪水で流失して現在の地に留まり、摂社妙見宮は養父町稲津に流れ付き、その渕を「妙見渕」といい、ごく最近まで、「稲津のお祭りは船谷のお祭りと同日でなければならない」とされていたそうです。 2、3年前に、祖母が『やぶの民話』にある「岩見重太郎のヒヒ退治」というところをよんだときに、この日枝神社の関係を少し話してくれました。これ以上書くと脱線してしまうので、またの機会としましょう。 船谷には、船着場といわれるところもあるし、とても興味の尽きない場所です。 そもそも、船谷の名前の由来は「但馬一円が泥海であって、交通は船に頼っていたころのある日、ご神船の一双が流出した。その船が見つかった場所を船谷と名づけたのが、宮屋敷の麓・船谷である。」といわれています。(松明を持ち、失った船を捜すお祭りが大屋町宮本の御井神社であり、「まいっそ祭り」といわれています。「まいっそ」=「もう一艘ない」と夜をこめて探したのが始まりだそうです。) しばらくして、ゆうすけくんから大日如来のあったところの戦時中ころかと思われる写真が送られてきました。 ![]() 中央から少し右に見える、小屋は大日如来の石塔です。 この険しい船谷の山はなかなか優良な牛の産地だったそうです。 そして、牧草地の上はカヤ刈り場だったそうです。 また、おばちゃん(祖父の妹)からは「このあたりは、ぜんまいがよく採れて、とりに行ったもんです」と聞きました。 この写真を見せたら、ここで生まれ育った祖母はなつかしいというかもしれませんね。 ちなみにこの写真をとったのは、私たちの曽祖父・理之助さんです。 養父の市場に飾るために写真の中の人物も牛もカメラ目線だそうです。 船谷の放牧の風景とカヤ刈り場、そして、山菜取りの話を聞いて、作畑でいったら、千ヶ峰を思い出しました。 現在はハイカーと猟師ぐらいしか山へ行きませんが、かつて、石風呂の谷は同じように放牧され、カヤ刈りもされていました。そのことは作畑の祖父が時々思い出したように詳しく語ってくれます。祖母は千ヶ峰で山菜取りに夢中になり、迷子になったということもたまに話してくれます。 今は、地元の人は行かないようになってしまっている山も、かつては麓の村の人にとっては、なくてはならないもので、生活の一部であったことがとてもよくわかった山でした。 最近の私に忘れかけていたものを、いろいろと思い出させてくれた山歩きでした。 ありがとう、ゆうすけ君。
先週「かみかわ百選 ガイドブック」が届きました。
![]() 昨年?ぐらいに町が選定募集をしていて、私もぜひ皆さんに知ってもらいたいなぁと思うところを推薦しました。 とても面白いので、ぜひ機会があれば見てください! 私はこれを見て、中村行者岳と大山あたりの山が気になりました。 どちらも前から気になるスポットですたが、機会があればぜひともいってみたいです。 500円で販売しています。
2010年、『岩屋地区から「いも峠」を越えて、金蔵寺へお参りに行った』ときのレポートをまとめているときに、おもしろい文章を発見しました。
長井作治さんが書かれた『岩屋史考』には、 遠い昔この笠形山を中心にして山岳民族が住居していたのがだ始まりで北側の斜面も今よりは綾やかで南側には笠形神社 北側には金蔵神明と神を祀り山岳信仰とかの生活の支にして暮たしていたものと思われる 北側の神明谷は土質の関係上其の後何回か山崩れが起き今では剣しい斜面に成っている 奈良時代の山崩れえ金蔵神明の社も押流され只一つ金蔵の紙の御幣が多可郡的場の山中の高い木の上に引掛っていたので所処に祀られていた伝説として伝られて聞いたが 的場の金蔵寺の案内書には天平三年(西暦七ニ六)笠形寺より湧出したる六糧の黄金仏薬師如来を当方面が導キ祀った音が記されている” また、“神明神社は明治時代の神社合祀令に従って村中の現在地に移され神明谷には何時の時代から茲に祀られていたのか屋敷趾の石垣は今でも残っている とあります。 これを見たときに、神明谷には寺や神社跡など、いろいろ言い伝えがあって、おもしろそう!と直感で思いました。 ある日のこと、ご近所の地平さんと笠形山のことで立ち話をしていたら、地平さんは、神明の谷で「崖磨仏」を見たことがあると言われました。また、昔に、町の広報で、この辺りにある宝篋印塔も紹介されていましたが、見たことがありませんともいわれていました。そんな話を聞いたら、とても見に行きたくなります。それらも含めて、神明谷を散策しようということになりました。 こんな興味深いお話、やまあそさんならおもしろがってくれるだろうと思って、やまあそさんも誘ったら、「行きます」とのこと。というか、二人だと、地図が読めない?(地平さんは読めると思いますが、山歩きが久しぶりで不安そう)だったので、やまあそさんに山の案内をお願いしました。 4月1日 集合して、神明谷を目指します。 そういえば、境目の「首切り地蔵さん」に道標があったことを思い出して、まずは見学。 『従是 右ハ神明道 左ハ京道』とあります。 ![]() 「左ハ 京道」はもちろん、「いも峠」を指しています。 地平さんのお話では「修験者がここを通過するときは必ず神明谷にむかって法螺貝を吹いた」といわれていました。 そして、この場所から笠形山の北の尾根にある「天邪鬼の挽き石」が見えるというので、双眼鏡をのぞいてみんなで観察。 ![]() 挽き石にはこのような言い伝えがあります。 昔この山に天邪鬼が住んでいて自分を誇示する為に一夜に此処から向う山に石橋を掛けて見せると豪語し夜に入ってから作業に取り組んだが橋台の石を建てた処で夜が明けたと伝えられるこの挽石は神明谷の頂の尾根に在り 下の村から北側の尾根を見れば倒れないかと思はれる凄じい様相で経っているのがよく見える そして、神明谷に入り、林道の奥に駐車して、散策開始です。 まずは、宝篋印塔から探します。地平さんは、20年前にみたというS田さんに電話されています。すると、川向こうの低い尾根にあるという。でも、それをS田さんはみられたのは20年も前で、杉の木が植林されたばかりで見通しがよく、この場所からわかったといわれていますが、現在では、杉はすくすくと成長しているので、見えません。 とにかく、そちらへ歩くことにしました。川沿いにのぼって、へんなところから対岸に渡りましたが、地平さんは「もっと渡りやすいところがあって、歩きやすい道だった」といわれています。 対岸に渡ると、歩きやすい道が現れました。 ![]() そして、宝篋印塔がありそうな場所を探しました。 わたしと地平さんはのんびり歩きでしたが、やまあそさんが先にいろいろ見ながら歩かれていて、いきなり「あったー」と聞こえました。ついていくと、杉の林のぽっかりあいたところに宝篋印塔がありました! ![]() 三人で、何が彫ってあるのか、わーわー言っていました。 この宝篋印塔にはこのような言い伝えがあります(言い伝えは「五輪の塔」とあります) 五輪の塔の入り口に高さ約1米の五輪の塔が雑木林の中に眠っている 戒名の文字も不明だが只一字尼の字が読とれる 処から金蔵時代の尼寺の中の権威ある尼層の墓碑かと思われる この辺りには庵屋敷と呼ばれる所が彼方此方に残っているが この外にも或ひは五輪の塔があったが山崩れで流出したのではないかと思はれる でも、「尼」のさえもよくわかりませんでした・・・。 そして、沢沿いにあるよい道を進みました。 ![]() 崖磨仏発見。 ![]() ![]() 崖磨仏にはこのような言い伝えがあります。 昔金蔵並に神明も参拝するら道中に清らかな水が音を立てて流れる滝の姿に何か神秘的に感じた信者の一人が一心に祈念し乍ら当時道具もない時代に鎹一丁で毎日毎日熱心に彫っていたと伝えられている 滝の片の岩壁に彫ってある為幾多の嵐にも流出することなく永い歴史を見つめ乍ら語ることなく当時を偶ばせている この滝を不動の滝と呼び麓からは山道を相当があるが今でも何人か参拝する人があるらしく新しい樒が供えて有った。 しかもあたらしい、お供えがあります。おそらく、年末かお正月にお参りにこられているのでしょう。 その横の不動の滝?を地平さんが観察されています。なんとかという昆虫らしいです。 こんなのみつけるなんてさすが!というか、本職ですね。 やまあそさんは崖磨仏のうえに見える滝みたいなのが気になるといって見に行かれました。私たちは水生昆虫観察。上の滝は滝ではなく、ただの崖でした。 さらに、谷をすすんで次は神明神社を探します。 しばらくあるくと、道が石垣になっています。 ![]() やまあそさんは「これは絶対参道や」といいました。 谷が二つに分かれ、左手を進みました。でも、道がなくなり、断念。 ここいは神社跡はなさそうです。ちょっと休憩して、撤退しました。 でも、もしかしたら、右の谷のほうにあるのかも?ということで、そちらへ行きました。すると道らしきものがありました。でもそれは、炭焼き窯でした。 やまあそさんが、もうちょっと上に行ったところに平坦地がありそうやから、そこが怪しいといわれています。 有るのか無いのかもわからないものを探すので、あったら、ラッキーという感じで歩いていましたが、先導するやまあそさんが「あったー」と叫ばれています。 そこにはまぎれもなく、神社跡がありました。 ![]() 思わず、地平さんと私はバンザイしました。 やまあそさんと地平さんは、基礎を見て、どっちが入り口だったのだろうかと推理されています。手水鉢もあります。 ![]() その神社跡から右手をみると、すぐに笠形山頂が見えました。ご神体は、笠形山だったのでしょうか。 3人とも大興奮で神明谷を後にしました。 神明神社は「明治時代の神社合祀令に従って村中の現在地に移され」とあるので、現在はどこにお祀りされているのか気になります。 この文章を書かれたのが岩屋の方なので、わたしは岩屋の住吉神社へ合祀されたと思い、行きましたが、それらしいものは見当たりません。 ![]() 神明谷は、根宇野なので、根宇野の大歳神社では?ということで、向かいました。 大歳神社右手に社がありました! ![]() ![]() 地平さんは「根宇野の知り合いのおばあさん(生きておられれば100歳過ぎとおもわれる)の子どもの時(10歳ぐらい?)に、まだ神明神社が神明谷にあり、そこで獅子舞を奉納していたのを見たと聞ききました」といわれました。 境内にある「根宇野獅子舞」の説明には「明治初期までは、神明谷の神明神社(現、大歳神社に合祀)に奉納したとも伝えられている」とありますが、地平さんのお話から、頭の中で計算すると、明治後期まで、山の中にあったように思います。 長井さんの記述にも「神明神社は明治時代の神社合祀令に従って村中の現在地に移され」とあるので、明治39年から進められた神社合祀政策で、現在の地に移されたのかなぁ??と思います。 神社の前にある石灯籠には「延享ニ年乙丑年」 ![]() ![]() 明治後期に現在の地に下りてきたなら、これらは山から下ろされたんだなぁと思いました(石灯籠のほうは確実に神明谷にあったと思われます) 神明谷にある「天邪鬼の挽石」「宝篋印塔」「崖磨仏」「神明神社跡」を見ましたが、長井さんの文章には他にも庵屋敷と呼ばれる処が彼方此方にあるらしいし、根宇野の女渕(いしぶち)で発見された磨製石剣と手洗い石らしきものも金蔵寺に関係あるものと思われているそうだし、笠形山頂に大蛇とか「つちの子」をよばれるものがいたという言い伝えもあるし、山岳信仰の対象であったことを知ることができました。
やまあそさんが、一人で加古川市志方町行常集落から一乗寺まで歩いて、そこはかつて、一乗寺の裏参道だった言うことを聞きました。私がその道、なんかおもしろそうといっていると、今度は、行常から尾根を歩いて一乗寺を目指すといわれたので、ついていきました。
2月8日。 行常の集落が曖昧だったので、1月22日のオフ会の集合場所だった古法華公園に集合。行常集落のお稲荷さんから出発しました。 まずは稲荷を見学。 ![]() ![]() ![]() 裏に回って、『行常しあわせの森つくり』の敷地にお邪魔しました。ここは、NPOが竹林を整備して、竹炭などをつくっているようです。 それらを見学しながら、遊歩道を歩きます。 ![]() ![]() しばらくすると、そよかぜ広場というところがあり、そこに、ブランコとはハンモックがあります。それで独りで遊んでみました。 ![]() メインは山歩きなので、遊んでばかりもいられず、出発です。 巡視路を歩きました。 ![]() 巡視路は歩きやすかったですが、途中から、離れます。でも、とても歩きやすい道がありました。 どんどん歩いていると、イノシシのヌタ場があり、峠があり、とにかく前へ歩いていくと、近畿自然遊歩道にでました。 ![]() ここは、とても歩きやすかったです。このまま北上すると、簡単に一乗寺にいくことができますが、やまあそさんが、この道の東の尾根を歩くといわれたので、尾根に入りました。 最初は、普通に歩けましたが、途中から、シダ藪・・・。 うっすら踏み跡はありますが、シダがとにかくすごすぎて、リュックにひっつけていたストックが引っかかったのと、本当に前進不可能になったので、あきらめて引き返しました。 ![]() そして、近畿自然遊歩道を歩き、無事に一乗寺に着きました。 ![]() 時間に余裕があったので王神峯にもいこうと話になりました。 リュックに食料は入っていましたが、一乗寺の休憩所で食べようということになり、そこでうどんを頂きました。 私たちのこぎたない格好をみたお店のお母さんが「とちらから?」といわれたので、答えると、「行常から歩いてきました。これから、王神峯に行きます」と答えると、「行常から?!昔はこの道は一乗寺の参道やったんよー。王神峯も行ってんですか。すごいですね。」といわれました。 お腹がいっぱいになったところで、、目の前の一乗寺は見学せず(前にしたので)、県道717を西へ歩き、ガードレールの切れ目のとこから山に入って、王神峯を目指しました。 ![]() この入り口には、大日如来がお祀りされてます。 ![]() シダの道をだいぶん歩くと、修行僧のお墓がありました。 ![]() さらに歩くと、左手に、NTTの電波等が見えてきました。 ![]() そして、やっとの思いで、王神峯の牛頭天王のお堂に着きました!! ![]() ![]() このお堂は昭和46年に改築されたそうです。 私は、この王神峯の牛頭天王のお堂にどうしても行きたかったのです。 というのも、元亨釈書に “法道仙人は、天竺の人です。(中略)あるとき紫色の雲に乗って、仙苑を出て、支那を経て、百済を過ぎ、わが日域へ入り、播州印南郡法華山へ下りました。その山は八朶があり、故に号をつけました。渓谷からは五色の光が出ていて、法道仙人は霊区と見なして、居ました。(中略)ある日、多聞天が雲にのって、法道仙人に「あなたはずっとここにいてください。私は正法を擁護して、国を鎮撫しましょう。」といいました。また、牛頭天王が西の峰に現れて「私にどうか除災の役を任せてください」といいました。” とあるのですが(訳まちがっているかも?)、東の毘沙門堂、真ん中の一乗寺は行ったのですが、西の牛頭天王はまだでした。 これで、元亨釈書の記述の3つを見ることができました。 (私は、後で知りましたが、多聞天と毘沙門天は同じだそうです・四天王では多聞天、七福神では毘沙門天というそうです。) お堂からは、北を見ると、1月22日の古法華の南尾根がよく見渡せました。 ![]() 見学したあとは、リコーダーの練習です。 でも、私は音符はよめますが、リズムをとるのが苦手で、ひとつひとつ教えてもらいながら、吹きました・・・。(これを披露するまでには、一年近くあるので、大丈夫???) ここから下に下るのに、先ほどのシダの道を下るのは、つらいので、NTTの電波塔の管理道から降りました。 でも、これも、長くてつらい・・・。 国道372に出ると、古法華のほうが近かったので、そこまで歩きました。 これを歩くのもまたつらかった・・・。車道を歩くのは疲れますね。 やまああそさんのためになる落語を聴いて、つらさを忘れようとしましたが、私はオチがわからず、やまあそさんはがっくり・・・。私が疲れさせました。そして、解散しました。 念願の王神峯に登り、お堂を見学できて、大満足な一日でした。ありがとうございました。 追伸・やっとレポートできましたが、もう2ヶ月前ですかぁ。
私が「忘れ去られつつある文化」という内容で連載させて頂きますサーラの51号が、最近、発行されたのですが、
それが3月20日の神戸新聞の姫路版で紹介されました。 ![]() 私は秋に祖父母たちと福知山市大江町に訪問したのですが、その成り行きについて、書いたこと取り上げて頂きました。 3月22日は、東播版と明石版にも載りました。但馬版には、姫路版と同じものが載ったそうです。 ![]() 有島さん、ありがとうございました。 「文芸日女道」4月号にも、サーラの私の記事を少し取り上げていただきました。 今回は、大発見だったので新聞で大きく取り上げていただきましたが、逆に次号がとてもプレッシャーです・・・。 内容は決まっていますが、変更するかもしれません。 第4回は「作畑のおじいちゃんの思い出・ひいおじいちゃんの思い出、但馬の〇〇〇〇を中心に見たときのまわりの地域のつながり」です。(内容がおおすぎる?) とうとうサーラ編集のふみゑさんとやまあそ師匠が登場??(予定)
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