2011年 01月 02日
トシオケさま
昨年の7月に、『兵庫南但馬の民話』の語り部「朝日敏雄さん」の息子さんをおたずねした後に、さらにお話を伺いたくなって、それからまもなく、私のことを小さい時からよくご存知の妹さん(敏雄さんからみると娘さんですが)をお伺いしました。
そしたら、妹さんも、とても民話や民俗など昔のことにとても詳しく、いろいろと資料を見せてくださいました。
そのなかに『兵庫探検 民俗編』がありました。
そこには、お父さんである敏雄さんが、歳桶さまの準備をされている姿が載っていました。 (そういえば、息子さんから「八十八夜念仏」などのお話をお伺いしたのはこのお部屋で、私が座っていたのも大体このあたりでしたね・・・。)
本にはこう載っています。
“トシオケは、径一尺ばかりのオケだが、これに一年中のみのりを納めて正月の神、年神さんにささげるという意味で、豊作と密接な関係を持つ。下の分布図のほうに、兵庫県をはじめ、岡山、鳥取などの中国筋、隠岐、ずっととんで長野の山村の古い家では、今でも年神さんを祭り、トシオケを供えている。年神の年は「稔(トシ)」であり、古語では米や穀物の神とも考えられている。淡路ではこれをオトシサマノオケと呼んでいるが、一年中のみのりをもたらせてくれたお礼と、今年の豊作を願う予祝の意味がこめられているのだろう。
但馬では「トシオケが年神さんである」という信仰が行き渡っており、昔は、トシオケは必ず祭らねばならないものとされていた。宍粟・佐用郡からこの両郡の接する岡山県北部、鳥取にかけては、このトシオケを納戸(普通、家の裏側にあり寝室になることが多い)に祭ることが多いが、とくに宍粟郡千種町や養父郡大屋町若杉などでは、茶の間デイ(表側にあり、床の間のある部屋)にはなにもせず、トシオケを納戸や蔵の一番奥において、これを年神さんのご神体に見立ててお灯明をあげ、おみきと雑煮を供えて祭る。
トシオケに入れるものには。米を平年なら一升二合、旧暦でうるう年は十三ヶ月あるから一升三合、鏡もち、子もちをやはり月の数に合わせて十二、三個、お金、コンブ、くしガキなど共通のものが多い。ほかにクリ、黒豆、カヤの実、ダイダイ、養蚕地帯では糸もちや繭もちとか、ワラのもち花、サカナもち(ひしもち=養父郡大屋町大杉)しらが、(真綿=養父町)麻苧(日高町)など、さまざま。
宍粟郡一宮町黒原では、お金のほかさらに実印も入れたり、一年間もうけたお金を全部いれる(同郡波賀町上野)例もある。これらの品を入れることを「祝い込む」といって、棧俵でふたをし、大切にシメを張るところが多い。
三方という、高い折敷が民間に普及するまでは、神供として、このオケトシは広く一般的に用いられていたものだろう。トシオケとしてマスを使う(津名郡一宮町多賀)所もある。
トシオケは常置されている神たなとは別に、正月を迎えて、その年々に臨時的に恵方に向けてつった年だなの上にのせて祭ることが多い。
洲本市中津川のように、天井から棒をつり、中央にダイダイ、カケクジ(干しガキ)、金、米を入れた白木のオケをさげ、両脇にイワシ二尾ずつをさげるカケノイオのオケも、トシオケの変形だろう。
トシオロシ、オトシオロシといって、トシオケを年たなからおろして片付ける日には、大体正月十一日の朝が多い。中のもちで雑煮をたいたり、十五日の年神送りのカユに入れたり、トンドであぶって食べたりする。トシオケの米は苗代づくりの時に食べたり(宍粟郡波賀町有賀)八十八夜のもみまきの時に食べたり(同郡一宮町東市場)ワサウエ(初田植え)に食べ、カマドの上に祭ってあるオドク ジンサン(田を見回っている神)にも、この米で作った五目飯を供えたり(佐用郡上月町宇根)するが、年神さんにあげた神聖な米を、農事始めの大切な時に人間が食べるということからみても、年神さんと農事をの結びつきの深さが推測される。”
そして、作畑は、
“納屋のウスの上にカナコギ(稲こき用具)を置き、その上にオトス(土製のうす)を置く。その前に一斗マスの中に一升マスを入れ、その中に小もちを入れて田の神を祭る。”
とのっていますが、ウチではマスは使いません。
ウチも、「オケ」です。 (今年のウチの歳桶さま。昔はお金を入れていたそうですが、物騒なのでその習慣はなくなり、米一升二合、お餅12個、クリ、みかん、煮干、干し柿が入っています。)
トシオケさまの分布は、資料ではこういうようになっています。
あれ?地図を見ると、母の生まれた地域あたりもトシオケさまをお祭りする風習があるみたいです。
祖母に問うと、こちらのおうちでも「蔵」に「歳桶さま」をお祭りされています。 (蔵のなかの「トシオケさま」)
「トシオケさま」を覗いてみると・・・・ (オケの中に一升マスに入ったお米がありました。ここの家では昔からお餅やクリなどは入れずに、お米のみをお供えするそうです。)
私が蔵の中で歳桶を見ていたら、母方の祖母は「おじーさんがぁ、おりんなったときはもっときっちりお祭りしよりんなったけどぉ、おらんようになってもてからは、ええ加減になってみたわなぁ。ここはこうしとりんなった。」と言っていました。けど、私には、もう十分きっちりお祭りされているようにみえるのですが・・・・・。
これからも、ウチでは歳桶さまを大事にしたいとおもいます。
追伸:母方の祖母の祖母「かや」さん(あれ?敏雄さんの語っている民話の本には「かよ」って載っていましたけど・・・?)が、こちらの朝日家から来られたそうです。
今日、祖母から「昔、うちのおばあさんがよぅいいよんなったお話」を聞きました。この、かやさんもとっても民話や民俗にくわしいようです。きっと、元は一緒なんでしょうね。
そしたら、妹さんも、とても民話や民俗など昔のことにとても詳しく、いろいろと資料を見せてくださいました。
そのなかに『兵庫探検 民俗編』がありました。
そこには、お父さんである敏雄さんが、歳桶さまの準備をされている姿が載っていました。
本にはこう載っています。
“トシオケは、径一尺ばかりのオケだが、これに一年中のみのりを納めて正月の神、年神さんにささげるという意味で、豊作と密接な関係を持つ。下の分布図のほうに、兵庫県をはじめ、岡山、鳥取などの中国筋、隠岐、ずっととんで長野の山村の古い家では、今でも年神さんを祭り、トシオケを供えている。年神の年は「稔(トシ)」であり、古語では米や穀物の神とも考えられている。淡路ではこれをオトシサマノオケと呼んでいるが、一年中のみのりをもたらせてくれたお礼と、今年の豊作を願う予祝の意味がこめられているのだろう。
但馬では「トシオケが年神さんである」という信仰が行き渡っており、昔は、トシオケは必ず祭らねばならないものとされていた。宍粟・佐用郡からこの両郡の接する岡山県北部、鳥取にかけては、このトシオケを納戸(普通、家の裏側にあり寝室になることが多い)に祭ることが多いが、とくに宍粟郡千種町や養父郡大屋町若杉などでは、茶の間デイ(表側にあり、床の間のある部屋)にはなにもせず、トシオケを納戸や蔵の一番奥において、これを年神さんのご神体に見立ててお灯明をあげ、おみきと雑煮を供えて祭る。
トシオケに入れるものには。米を平年なら一升二合、旧暦でうるう年は十三ヶ月あるから一升三合、鏡もち、子もちをやはり月の数に合わせて十二、三個、お金、コンブ、くしガキなど共通のものが多い。ほかにクリ、黒豆、カヤの実、ダイダイ、養蚕地帯では糸もちや繭もちとか、ワラのもち花、サカナもち(ひしもち=養父郡大屋町大杉)しらが、(真綿=養父町)麻苧(日高町)など、さまざま。
宍粟郡一宮町黒原では、お金のほかさらに実印も入れたり、一年間もうけたお金を全部いれる(同郡波賀町上野)例もある。これらの品を入れることを「祝い込む」といって、棧俵でふたをし、大切にシメを張るところが多い。
三方という、高い折敷が民間に普及するまでは、神供として、このオケトシは広く一般的に用いられていたものだろう。トシオケとしてマスを使う(津名郡一宮町多賀)所もある。
トシオケは常置されている神たなとは別に、正月を迎えて、その年々に臨時的に恵方に向けてつった年だなの上にのせて祭ることが多い。
洲本市中津川のように、天井から棒をつり、中央にダイダイ、カケクジ(干しガキ)、金、米を入れた白木のオケをさげ、両脇にイワシ二尾ずつをさげるカケノイオのオケも、トシオケの変形だろう。
トシオロシ、オトシオロシといって、トシオケを年たなからおろして片付ける日には、大体正月十一日の朝が多い。中のもちで雑煮をたいたり、十五日の年神送りのカユに入れたり、トンドであぶって食べたりする。トシオケの米は苗代づくりの時に食べたり(宍粟郡波賀町有賀)八十八夜のもみまきの時に食べたり(同郡一宮町東市場)ワサウエ(初田植え)に食べ、カマドの上に祭ってあるオドク ジンサン(田を見回っている神)にも、この米で作った五目飯を供えたり(佐用郡上月町宇根)するが、年神さんにあげた神聖な米を、農事始めの大切な時に人間が食べるということからみても、年神さんと農事をの結びつきの深さが推測される。”
そして、作畑は、
“納屋のウスの上にカナコギ(稲こき用具)を置き、その上にオトス(土製のうす)を置く。その前に一斗マスの中に一升マスを入れ、その中に小もちを入れて田の神を祭る。”
とのっていますが、ウチではマスは使いません。
ウチも、「オケ」です。
トシオケさまの分布は、資料ではこういうようになっています。
あれ?地図を見ると、母の生まれた地域あたりもトシオケさまをお祭りする風習があるみたいです。
祖母に問うと、こちらのおうちでも「蔵」に「歳桶さま」をお祭りされています。
「トシオケさま」を覗いてみると・・・・
私が蔵の中で歳桶を見ていたら、母方の祖母は「おじーさんがぁ、おりんなったときはもっときっちりお祭りしよりんなったけどぉ、おらんようになってもてからは、ええ加減になってみたわなぁ。ここはこうしとりんなった。」と言っていました。けど、私には、もう十分きっちりお祭りされているようにみえるのですが・・・・・。
これからも、ウチでは歳桶さまを大事にしたいとおもいます。
追伸:母方の祖母の祖母「かや」さん(あれ?敏雄さんの語っている民話の本には「かよ」って載っていましたけど・・・?)が、こちらの朝日家から来られたそうです。
今日、祖母から「昔、うちのおばあさんがよぅいいよんなったお話」を聞きました。この、かやさんもとっても民話や民俗にくわしいようです。きっと、元は一緒なんでしょうね。
by deity_river
| 2011-01-02 21:30
| ぎょうじ