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2つの神社跡をさぐっていたら・・・・。(the other story)つづき

文字制限で載せきれなかった前編(山歩き編)はこちらをご覧ください。

 御祓山を歩いたあと、いろいろ方から、お話を一日で聞きすぎて、頭がもやもや、それがだんだんもつれて混乱してきました。
でも、養父に伝わる民話の本を持っていることが頭の中に蘇ってきて、家に帰って、さっそく伯父さんに頂いた『やぶの民話』をひっぱりだしてきて、関係がありそうなところを読み返しました。
開いてみると、こんな民話が載っていました。


<馬のあしあと> 森地区に伝わるおはなし
 大屋町の奥宮本に、川の中に石があって、それに馬のひづめの跡がありよった。天馬があそこを
通ったんじゃとかかいう。
天王さんがだーっと馬に乗って、出られょうって、その石が邪魔ぁなって、馬がちょんと足を掛けたら、
馬の足跡がついたんじゃともいう。


<神社の取りあい> 森地区に伝わるおはなし
 三谷(養父町)のもんと宮本(大屋町)のもんと、天王さんにまいりよったんじゃけど、三谷のもんじゃ、宮本のもんじゃいうて喧嘩ぁしたらしい。
「そんなら、帰って、あしたの朝早う行った方が、お宮さん持って去(い)のう」いうこってやったら、三谷の者ぁ正直やったしけぇ、
「あした、帰って早う行こう」いうこって、たーっと戻ったんじゃそうなし、宮本の者ぁ手にあわなんだで、途中から引き返して、いって、引っくり返して持って去んじゃって。ほえで、いま宮本に天王さん祭っとるんじゃ。
三谷のもんが一杯食ったんじゃ。天王さんは御井神社ゆうとる。


岩井のお母さん達からは、「神さまは、牛に乗って下りてきんさった」と聞きましたが、峠をはさんで東側の森では牛の代わりに「馬」だったり、はたまた、ケンカしたとかいうお話だったりして、おもしろいなぁと思いました。

そして、セットでもらった『よもやまばなし』には、
<お走りさん> 森地区に伝わるおはなし
 4月15日、16日、養父神社から延々27キロ建屋斎神社にみこしが往復する奇祭をお走り祭りといって、町祭りとしてしられている。発祥は神功天皇が三韓征伐の帰路、養父神社に、“葛の葉餅”を献上せられその一部を斎神社に供えたという故事にまつらるお祭りであるが、このお走り祭りの道中の部落では、それぞれに接待の風習がみられる。
 昔、養父神社を出発したみこしは、三谷部落の奥を西向きに進みくしばの御祓山牛頭天王社に寄られたのちに、森分のタワ、サイキを越して、カカナベ作山明神より、谷口の荒神の森を通って、浅尾大明神に立ち寄られ、奥山口、建屋川越附近で小休止、社内神社氏子の歓迎を受け、建屋川沿いに斎神社に向かれたという(以下省略)


とあります。私はこれを見つけたときには、びっくり。
みこしのルートがあるではありませんか。これをみたら、また、このルートが気になりはじめました。

それに、宮本御井神社のまえで、草引きをしているお母さんからは、御井神社では1月14日に松明を燃やすお祭があると聞きました。(作畑では、この日は、「とんど」をして、「きつねがえり」という行事をするので、そういうものかなぁと思っていました)
いったいどんなお祭りなのかなぁと調べてみると、このことが『兵庫県の秘境』という本に書かれていました。

 大屋町宮本の御井神社は、牛頭天王を祭り、天王さんの名で知られている。この宮では、1月14日夜、鬼やらいに似た「まいっそ祭」がある。(中略)
 太鼓の音とともに式が始まり、面を着け、鉄鉢をつけた鬼神が現われる。鬼神は無言であるが、一同は「まぁいそ、まぁいそ」と叫びながら、鬼神を松明で叩く。その間に鬼神は、ゆっくり四股を踏みながら、左に進んで本殿に帰る。この時、誰かが「ホイあった」と叫ぶ。(中略)
 まいっそ祭りは、その昔、但馬一円が泥海であって交通は船に頼っていた頃のある日、ご神船の一双が流失したので、「もう一艘ない」を夜をこめてさがしたのに始まる。「ホイあった」は、船を発見した知らせ。その場所を船谷と名づけたのが、宮屋敷山の麓、養父町船谷である。


 但馬に関する本をいろいろ読んで、いろいろ分かったことも多かったですが、けど、逆に、興味が広がりすぎて、分からないことも増えてしまいました。
自分でも驚いたのは、「船谷」は祖母の生まれた地域なのですが、そこも関係しているとは・・・・。
なんだか、書き出したらきりがないので、一旦、このあたりで締めくくろうと思います。



 この日も、本当に奇跡のような出会いができてとても感謝しています。
そして、やまあそさんがいなかったら、私は神社跡を見つけることができなかったし、その前に、山頂までにもたどりつけていなかったと思います・・・。きっとロープ激のぼりで、立往生か、確実にストックを谷に落としていたでしょう!

 『やぶの民話』をはじめ、但馬に伝わる民話がおさめられている本は前々から読んではいたのですが、そのときは、「あぁ、こんなお話があるんかぁ・・・」と、ビックリはしたものの、たくさん伝わっている民話の一つとしか認識していませんでした。しかし、山歩き後にあらためて見返すと、しっかりと頭に刻むことができました。
民話は本当だったということが、自分の足で歩いて、目で確かめて、話を聞いて、分かりました。
でも、寄り道しすぎかも・・・・。
そのおかげで、いろんなことがわかり、繋がったのですから。とても、満足です。

でも、きっかけは「お走り祭りの神輿が登っていたという御井神社跡をみてみたい!」という、単純な気持ちだったのですが、いろいろ話が横に繋がっていて、こんなに奥が深いとは・・・・。それこそ、調べても、調べても、話が繋がっていくと思います。また、今度は違う物事から養父の民話や言い伝えをみていきたいなぁと思います。

そして、『よもやまばなし』を読み返しているときに、こんな言葉が目に入りました。

 車を乗りまわし、コーヒーの香を求めながら適当に金儲けをして、テレビやカラオケで興じることのできる世の中になって、誠に申し訳ない、有難い時代だと思います。
 近頃は、路地に入っても、片側駐車のできるようになり、しばらく地元を離れている人が帰ってくると、この変りように目を見張ることが多いといいます。しかし、私たちは、家が建ち変ったり、道が整備されても、すぐその環境になれてしまって、当然のような気分になってしまいます。
 道ばたで、蕗のとうや雪の下を摘んだ石垣はなく、しじみやザリガニをとった溝は今はうめられてしまって、何か、一抹の淋しさを禁じ得ないのは事実であります。
 こうした地形の変化はもとより、生活のなかでの変りよう、つまり、風習、しきたり、語り草、行事その他もろもろのことが変わりつつあり、変るだけでなく、忘れ去らようとしています。
 “あのおじいさんがよく知っていたが、あの時、もっとしっかり聞いとけばよかったのに”・・・・・・と、或いは、“昔の者は、何でも書き残してくれればよかったのに”と後で気がついたり、残念に思うことがしばしばあります。
 このことが、善いにつけ、悪いにつけ、昔はこんなんだった、と想像するだけでも、面白いし、参考になります。
 経験のない私たちは、ふだん家庭内で、年寄りから、いろんな話を聞いても、なにくわぬ顔で聞き流していますが、お年寄りが亡くなれば、いくら探し求めても、再び知ることができなくなってしまいます。(中略)
 記録ということは、これは面倒なことでありますが、大切なことで、どんなに字が下手でも、文章がまずくても、書き留めておく癖を持ちたいもの、私たちが昔の人を批判する前に、先ず自分の身近なことから綴っておくことが必要だと思います。


これこそ、私が日々おもっていることやん!と共感しました。
糸原・宮本・岩井廃村で出会ったお母さんたちから聞いた物語。
ぜひ、後々の世にまで、伝えていってほしいなぁと思います。
それに、あらためて、自分がやるべきことを再認識しました。


まったく、うまくまとめられなかった上に、長々と文字ばかりですみませんでした。
by deity_river | 2011-05-08 22:01 | しゅみ

地元の暮らしの様子や日々思ったことを更新中。なくしたくないものがたくさんあるから。

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