2011年 06月 06日
知らぬところで、繋がっているのかも・・・(the other story)
YSさんがまだ未踏の山で、やまあそさんが寺跡を確認したいということで、お二人で出石の「大高山」に行かれるそうです。
三久安山以降、山歩きもしていないし、久しぶりに、歩きたいなぁと思っていたところに、寺跡散策も兼ねていると聞いたので、それに便乗して、私もご一緒させていただきました。
その山登りは、急遽、前日に決まりました。
6月5日。
YSさんとは、道の駅・やぶで集合です。(広峰神社以来ですね。お久しぶりです)
そして、出石へ向かいました。
出石の町中を走っていると、なにやら、派手な色使いの石仏が目に入ります。
それは、「化粧地蔵」というものだそうです。
初めて見たときは、これはいたずらかなぁと思いましたが、そうではなく、「地蔵盆のときに、子ども達が石仏に色を塗る」という文化があるそうです。
やまあそさん曰く、「出石や和田山では見るけど、不思議やけどその間にある養父では見ない」とのこと。そうかー、だから、私は今まで、化粧地蔵なるものを見たことがなかったのですね。
そして、八坂という地域に車を止めました。そこがスタートです。 (帰りは、右側の道から出てくるらしい)
はじめに、八坂から一つ南の谷山という集落にある「蔵王権現堂」を見学しました。
お堂の中を見学しているとこんなことが書かれていました。 「此の神社は、天正年間権現山頂に鎮座されていましたが 年月を重ね昭和六三年二月に 此処に復元いたしました。」とあります。
お堂の中には、分からない仏像と 新しい蔵王権現の札と あやしい石。
このお堂の隣にも、お堂があり、見学しましたが、もう神さまはいらっしゃらなかったです。
そして、神社と権現堂をあとにして、林道へはいりました。
まずは、二等三角点・古寺がある「大高山」をめざします。
この点名の由来は、このあたりに「涅槃寺」というお寺があったそうです。
林道を歩いていると廃屋があり、 動物を捕まえるワナがあり、 美しいもみじあり。
三角点は尾根沿いにありますが、林道は谷に続いています。
どちらを選んでもよかったんだそうですが、やまあそさんが「谷をいく」といいので、その道を進みました。
中で道がなくなり、尾根に取り付くために、激のぼり?開始です。
最初は、なんとかストックや木を使いながら登れるという感じでしたが、途中からさらに斜度がきつくなり、疲れてくるしで、私は熊笹をつかんで、直登。なんとか登りきりました。 (必死なわたし)
尾根に出ると、なぜか林道がありました・・・。
しばらく、林道を歩いていましたが、林道は山を巻いているようした。わたしたちは尾根にある涅槃寺あとを目指すので、林道をはなれて、尾根を歩きました。
しばらく尾根を歩いていると、ちょっと地形が不自然なところがありました。
あきらかに、人工的に平地を作っています。
やまあそさん曰く、「ここは涅槃寺の坊の一つだったとおもう」とのこと。
しばらく尾根を歩いていましたが、そのほかに、寺跡のような場所はなく、涅槃寺の本堂の跡は見つけることができませんでした。(でもどうやら歩いていた尾根よりちょっと下にいったところにあったようです)
やっとのことで、大高山にある二等三角点・古寺(ふるてら)へ。
私は、ここでお昼ごはんだと勝手に思いこんでいたのですが、ここじゃなかったらしくて、また、私が「お腹がすいた~!」と叫んでいたら、いつものように、心優しいYSさんがおやつを分けてくださいました。
しばらく休んだあとは、気を取り直して黒岩をめざします。
この道にはたくさんのイワカガミがありましたが、ごはんがおあずけなので、だらだら歩いていました。 (イワカガミが群生)
そしたら、急にやまあそさんが叫びました。
なになに?と思って、近づくと、弱っている子鹿が・・・。
そして、また、尾根を歩き、やっとのことで、黒岩手前のピークへ。
ここはのほうが展望が良いらしいので、昼ごはんを頂きました。
昼ごはん後は、わたしもビックリのサプライズ山の上音楽練習会(今回はコンサートじゃなく、練習会です)。
ちょっと前に、やまあそさんから「いつくしみ深き」の楽譜を頂いていましたが、確認し忘れていて、まったく練習していなかったので、とりあえず初見は一人ではやってみて、2回目であわせて見ました。
やまあそさんがオカリナで、私はアンデス25Fです。
今回は本当に練習会なので、動画はありません。(の割りに、よくハモっていましたが、わたしは正確に符読みができず悪戦苦闘・・・)
練習も終わり、すこし歩いて黒岩へ行きました。
そこからはゴール地点の八坂集落が良く見えました。 (私の指の先には) (八坂集落。写真の中央より少し左にみえています)
黒岩の展望を楽しんだあとは、さらに尾根を歩きました。
そして、目の前に高か~い山が見えました。
ちょうど、そのとき、やまあそさんの無線が反応して?交信されていました。
お相手のしらすさんは、権現山の山頂にいらっしゃるとのこと。
私たちも権現山手前なので、もしかして同じ山?と思っていたのですが、同じ名前だけど、標高が違うので、別の山と判明。
しかも、しらすさんはやまあそさんのHPのルートを参考に権現山を歩かれたそうです。
すごい偶然ですねー。 (自分のHPを参考に別の権現山を登られていると知ったやまあそさんは上機嫌)
その会話を聞いていて、私は今から、正面にあるこの高い山を登るということに気がつきました。
見るからに、きつそうな山です・・・・。
無線がおわると、いよいよ心臓破り?の権現山です。
私は、疲れて無口で、よろよろとなりながら、お二人のあとをついて行きました。
あんなに汗だくになったのはひさしぶりです。
山頂に着いたときには、吹き出る汗で、目が痛い・・・・。
でも、権現堂の瓦礫を見たときには、感動で、しばらくはその痛さも忘れてしまいました。23年前まで、ここに権現堂があって、村人がお参りにこられていたと思うと、なんだか感動してきたのです。
灯籠もありました。 (「奉献蔵王権現 天明八申歳 八月吉日」と刻まれていました。もう一つには「天明八戊申 年正月吉祥日」と刻まれていました。)
参道もうっすらと残っていました。
それらをよく見学した後は、山東町との境界方面に向かって歩き、境界に来たところで、奥屋根峠へきました。
でも、その峠道、新しい林道で、分断されていました・・・・。
やまあそさん曰く「前にここに来たときは、雰囲気のあるええ峠やったのになぁ。ここは出石の殿さまも参勤交代に通っていた由緒ある道やのになぁ・・・」とのこと。
そのガケのようになった林道をしがみつきながらおりて、林道へ下りてきました。 (わたしも、必死でここを降りました。)
(今はこんな林道ができています)
林道を下りていくと、八坂集落へつき、スタート地点へ帰ってきました。
林道の入口には、六体地蔵?と道標。 (「知 右 たんご 左 むらみち」とありますが、この「知」とはどういう意味でしょうか・・・?)
八坂集落には何軒か家はありますが、ここにはお一人でおばあちゃんがおられるそうです。
やまあそさんが、8年前に大高山に登られた時に、その山名を教えてもらったというおばあちゃんのお家をお伺いしました。(正確には、そのおばあちゃんの旦那さんでだったそうです)
おばあちゃんは、やまあそさんのことを覚えておられました。
しばらく、歓談して、八坂集落をあとにしました。
帰り道は、岩鼻稲荷にある化粧地蔵を見学しました。 (表情がなんともいえないかわいさです)
わたしは、久しぶりに汗だくになったし、せっかく出石まで来たので、乙女の湯に入って汗をながしました。
その帰り道、出石から養父の米地谷へ抜ける道を通りました。
というのも、奥米地の和尚さんから、前に「あたらしい林道に、旧峠にあった丁石を持ってきたんやで」と聞いていたり、祖母から「出石の殿さまが参勤交代する時に、山越えして米地谷を通っとんなったんやけど、その殿さまの籠を休憩するときに乗せる石があるでー」と聞いていたりしていたので、気になってはいましたが、見に行く機会がありませんでした。
出石側には特にめぼしいものはありませんでしたが、峠には祖母から聞いていた殿さまの籠が休憩するときにのせていた石と石仏がありました。
そして、石仏の名前を見ていると、米地ではよくある姓が刻まれていました。
ここには、このような文が刻まれた新しい石碑がありました。
「出石街道峠
その昔、山陰道から分かれて出石郷、三江庄へと向かう旅人は、米地谷を行くこの峠道を越えた。米地を三江路と記した中世の文書がそのさまを物語っているよう。江戸時代、出石の仙石候も江戸参勤の往き還りにこの峠を登り、ここに復元の台場にしばしかごを休め領内の展望を楽しんだ。米地の人々の出石への生活への道でもあった。年に一度は出石たんばへ出稼ぎへ行く耕牛の群が越えた。今日面目改まったこの峠道に「出石街道峠」の碑を呈し、ふるさとの昔をしのぶよすがとするものである」
これを見ていたら、ふみゑさんの『峠の話』や誠太郎さんの『白口・今昔記』を思い出しました。
そして、下りていくと、道の端に丁石がありました。
さらに下りていくと、米地谷の一番奥の集落・高中(こうなか)につきました。
(ここには、1月2日に父とやってきて、道標をみました。)
今まで、通ってきた道は、道標で言うと「左 やまみち」のところが整備されて、丁石が置かれていますが、私は、「右 出石道」がとっても気になってます。いつかの課題においておきます・・・。
家に帰って、養父の『よもやまばなし』を見ていたら、こんな話が載っていました。
<出石街道>
中米地から奥米地、高中を越して、出石に通ずる道を出石街道というが、現在は殆ど通る者もなく、けものの道となっているが、道祖神のお地蔵さんが一丁毎に置かれている。
昔は、養父方面に行くより坂越しで出石に出る方が良かったらしく、日用品や魚なども出石からの行商によってまかなわれていた。
おもしろい話で、米地谷でも牛飼いが多く農繁期以外は出石方面に牛を預ける百姓が多かった。子牛なども預けられ、帰ってきたときには、自分の家の牛がよその牛と間違ってもどってくることがあった、とか。
大高山に登って寺跡の一つを見ることができたし、権現堂の昔の姿と現在の様子を見ると事もできた上に、出石の殿さまの参勤交代の道を2つのルートも見ることができたし、初めて「化粧地蔵」なるものも見れたし、とっても大満足な一日でした。
やまあそさん、YSさん、楽しい一日をありがとうございました。
せっかくお久しぶりにお会いしたのに、途中疲れて、無口になって、すみません。
でも、本当に疲れていたのです・・・。
兵庫県の二等三角点踏みをしている三久安山以降、山歩きもしていないし、久しぶりに、歩きたいなぁと思っていたところに、寺跡散策も兼ねていると聞いたので、それに便乗して、私もご一緒させていただきました。
その山登りは、急遽、前日に決まりました。
6月5日。
YSさんとは、道の駅・やぶで集合です。(広峰神社以来ですね。お久しぶりです)
そして、出石へ向かいました。
出石の町中を走っていると、なにやら、派手な色使いの石仏が目に入ります。
それは、「化粧地蔵」というものだそうです。
初めて見たときは、これはいたずらかなぁと思いましたが、そうではなく、「地蔵盆のときに、子ども達が石仏に色を塗る」という文化があるそうです。
やまあそさん曰く、「出石や和田山では見るけど、不思議やけどその間にある養父では見ない」とのこと。そうかー、だから、私は今まで、化粧地蔵なるものを見たことがなかったのですね。
そして、八坂という地域に車を止めました。そこがスタートです。
はじめに、八坂から一つ南の谷山という集落にある「蔵王権現堂」を見学しました。
お堂の中を見学しているとこんなことが書かれていました。
お堂の中には、分からない仏像と
このお堂の隣にも、お堂があり、見学しましたが、もう神さまはいらっしゃらなかったです。
そして、神社と権現堂をあとにして、林道へはいりました。
まずは、二等三角点・古寺がある「大高山」をめざします。
この点名の由来は、このあたりに「涅槃寺」というお寺があったそうです。
林道を歩いていると廃屋があり、
三角点は尾根沿いにありますが、林道は谷に続いています。
どちらを選んでもよかったんだそうですが、やまあそさんが「谷をいく」といいので、その道を進みました。
中で道がなくなり、尾根に取り付くために、激のぼり?開始です。
最初は、なんとかストックや木を使いながら登れるという感じでしたが、途中からさらに斜度がきつくなり、疲れてくるしで、私は熊笹をつかんで、直登。なんとか登りきりました。
尾根に出ると、なぜか林道がありました・・・。
しばらく、林道を歩いていましたが、林道は山を巻いているようした。わたしたちは尾根にある涅槃寺あとを目指すので、林道をはなれて、尾根を歩きました。
しばらく尾根を歩いていると、ちょっと地形が不自然なところがありました。
あきらかに、人工的に平地を作っています。
やまあそさん曰く、「ここは涅槃寺の坊の一つだったとおもう」とのこと。
しばらく尾根を歩いていましたが、そのほかに、寺跡のような場所はなく、涅槃寺の本堂の跡は見つけることができませんでした。(でもどうやら歩いていた尾根よりちょっと下にいったところにあったようです)
やっとのことで、大高山にある二等三角点・古寺(ふるてら)へ。
私は、ここでお昼ごはんだと勝手に思いこんでいたのですが、ここじゃなかったらしくて、また、私が「お腹がすいた~!」と叫んでいたら、いつものように、心優しいYSさんがおやつを分けてくださいました。
しばらく休んだあとは、気を取り直して黒岩をめざします。
この道にはたくさんのイワカガミがありましたが、ごはんがおあずけなので、だらだら歩いていました。
そしたら、急にやまあそさんが叫びました。
なになに?と思って、近づくと、弱っている子鹿が・・・。
そして、また、尾根を歩き、やっとのことで、黒岩手前のピークへ。
ここはのほうが展望が良いらしいので、昼ごはんを頂きました。
昼ごはん後は、わたしもビックリのサプライズ山の上音楽練習会(今回はコンサートじゃなく、練習会です)。
ちょっと前に、やまあそさんから「いつくしみ深き」の楽譜を頂いていましたが、確認し忘れていて、まったく練習していなかったので、とりあえず初見は一人ではやってみて、2回目であわせて見ました。
やまあそさんがオカリナで、私はアンデス25Fです。
今回は本当に練習会なので、動画はありません。(の割りに、よくハモっていましたが、わたしは正確に符読みができず悪戦苦闘・・・)
練習も終わり、すこし歩いて黒岩へ行きました。
そこからはゴール地点の八坂集落が良く見えました。
黒岩の展望を楽しんだあとは、さらに尾根を歩きました。
そして、目の前に高か~い山が見えました。
ちょうど、そのとき、やまあそさんの無線が反応して?交信されていました。
お相手のしらすさんは、権現山の山頂にいらっしゃるとのこと。
私たちも権現山手前なので、もしかして同じ山?と思っていたのですが、同じ名前だけど、標高が違うので、別の山と判明。
しかも、しらすさんはやまあそさんのHPのルートを参考に権現山を歩かれたそうです。
すごい偶然ですねー。
その会話を聞いていて、私は今から、正面にあるこの高い山を登るということに気がつきました。
見るからに、きつそうな山です・・・・。
無線がおわると、いよいよ心臓破り?の権現山です。
私は、疲れて無口で、よろよろとなりながら、お二人のあとをついて行きました。
あんなに汗だくになったのはひさしぶりです。
山頂に着いたときには、吹き出る汗で、目が痛い・・・・。
でも、権現堂の瓦礫を見たときには、感動で、しばらくはその痛さも忘れてしまいました。23年前まで、ここに権現堂があって、村人がお参りにこられていたと思うと、なんだか感動してきたのです。
灯籠もありました。
参道もうっすらと残っていました。
それらをよく見学した後は、山東町との境界方面に向かって歩き、境界に来たところで、奥屋根峠へきました。
でも、その峠道、新しい林道で、分断されていました・・・・。
やまあそさん曰く「前にここに来たときは、雰囲気のあるええ峠やったのになぁ。ここは出石の殿さまも参勤交代に通っていた由緒ある道やのになぁ・・・」とのこと。
そのガケのようになった林道をしがみつきながらおりて、林道へ下りてきました。
林道を下りていくと、八坂集落へつき、スタート地点へ帰ってきました。
林道の入口には、六体地蔵?と道標。
八坂集落には何軒か家はありますが、ここにはお一人でおばあちゃんがおられるそうです。
やまあそさんが、8年前に大高山に登られた時に、その山名を教えてもらったというおばあちゃんのお家をお伺いしました。(正確には、そのおばあちゃんの旦那さんでだったそうです)
おばあちゃんは、やまあそさんのことを覚えておられました。
しばらく、歓談して、八坂集落をあとにしました。
帰り道は、岩鼻稲荷にある化粧地蔵を見学しました。
わたしは、久しぶりに汗だくになったし、せっかく出石まで来たので、乙女の湯に入って汗をながしました。
その帰り道、出石から養父の米地谷へ抜ける道を通りました。
というのも、奥米地の和尚さんから、前に「あたらしい林道に、旧峠にあった丁石を持ってきたんやで」と聞いていたり、祖母から「出石の殿さまが参勤交代する時に、山越えして米地谷を通っとんなったんやけど、その殿さまの籠を休憩するときに乗せる石があるでー」と聞いていたりしていたので、気になってはいましたが、見に行く機会がありませんでした。
出石側には特にめぼしいものはありませんでしたが、峠には祖母から聞いていた殿さまの籠が休憩するときにのせていた石と石仏がありました。
そして、石仏の名前を見ていると、米地ではよくある姓が刻まれていました。
ここには、このような文が刻まれた新しい石碑がありました。
「出石街道峠
その昔、山陰道から分かれて出石郷、三江庄へと向かう旅人は、米地谷を行くこの峠道を越えた。米地を三江路と記した中世の文書がそのさまを物語っているよう。江戸時代、出石の仙石候も江戸参勤の往き還りにこの峠を登り、ここに復元の台場にしばしかごを休め領内の展望を楽しんだ。米地の人々の出石への生活への道でもあった。年に一度は出石たんばへ出稼ぎへ行く耕牛の群が越えた。今日面目改まったこの峠道に「出石街道峠」の碑を呈し、ふるさとの昔をしのぶよすがとするものである」
これを見ていたら、ふみゑさんの『峠の話』や誠太郎さんの『白口・今昔記』を思い出しました。
そして、下りていくと、道の端に丁石がありました。
さらに下りていくと、米地谷の一番奥の集落・高中(こうなか)につきました。
(ここには、1月2日に父とやってきて、道標をみました。)
今まで、通ってきた道は、道標で言うと「左 やまみち」のところが整備されて、丁石が置かれていますが、私は、「右 出石道」がとっても気になってます。いつかの課題においておきます・・・。
家に帰って、養父の『よもやまばなし』を見ていたら、こんな話が載っていました。
<出石街道>
中米地から奥米地、高中を越して、出石に通ずる道を出石街道というが、現在は殆ど通る者もなく、けものの道となっているが、道祖神のお地蔵さんが一丁毎に置かれている。
昔は、養父方面に行くより坂越しで出石に出る方が良かったらしく、日用品や魚なども出石からの行商によってまかなわれていた。
おもしろい話で、米地谷でも牛飼いが多く農繁期以外は出石方面に牛を預ける百姓が多かった。子牛なども預けられ、帰ってきたときには、自分の家の牛がよその牛と間違ってもどってくることがあった、とか。
大高山に登って寺跡の一つを見ることができたし、権現堂の昔の姿と現在の様子を見ると事もできた上に、出石の殿さまの参勤交代の道を2つのルートも見ることができたし、初めて「化粧地蔵」なるものも見れたし、とっても大満足な一日でした。
やまあそさん、YSさん、楽しい一日をありがとうございました。
せっかくお久しぶりにお会いしたのに、途中疲れて、無口になって、すみません。
でも、本当に疲れていたのです・・・。
by deity_river
| 2011-06-06 22:46
| しゅみ