鉱山と神さま(その1)

 私の祖父母は、いまでも、青倉の神さまを信仰しています。
祖母は、春に青倉さんから頂いてきた水で目を洗っています。祖父は若いときは、作畑から、青草峠を越えて、青倉さんへお参りしていたそうです。それに、「親父は、若いときに、目をやんで、みえへんようになったけど、1ヶ月お堂に籠もとったら、見えるようになってきたんやで」という話も、聞きました。(祖父は「青倉は、目の神様であるけど、子授かりの神さまでもあって、子どもに恵まれない夫妻がお堂に籠もりよっちゃったんやで」ともいってました。)

 そんなあるとき、ふみゑさんの書かれた『峠の話』と出会いました。
それには、ふみゑさん幼い時に、父に連れられて、多可町から電車に乗り継いで青倉さんへ参った思い出を綴られています。ふみゑさんは「昔は山越えをしていたから、今よりずっと近かった」とも言われています。

それをみた、やまあそさんから連絡が来ました。
「多可町の鳥羽の青玉神社から三国峠に行く途中の分岐に「あおくら」とかかれた道標があって、その道標は山南町の人が寄進されています。ということは、この辺の人は、青玉神社の横を通って、青倉さん参りしていたはず。青倉と青玉はどちらも<青>がつくし、青倉は<目の神様>で、青玉は<鍛冶の神様>。この二つは関係があるのかも。」と聞きました。
しばらくして、「多可町の妙見山のふもとにある樺坂鉱山にも青倉神社があるし、山寄上にも青玉神社があるから、ついでに見に行きましょう。」と誘ってくださいました。

今回は、いつあるのかわからないけど、「青玉神社から、青倉神社へお参りしていたところをたどる」のための下見になります。


 9月18日。

 まずは、妙見山のふもとにある樺坂鉱山におまつりされてる『青倉神社』へお参りです。
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(観音寺地区の入り口にはこんな看板がありました。右上に「あおくらさん」とあります)

先日の台風のために、杉原川は土嚢がつんであったり、通行止めになっているところがたくさんあります。
そのために、迂回して、樺坂鉱山へ。
私たちの前を怪しい車が4台ほど走っていました。それを見たやまあそさんが「鉱山マニアかも?」といわれています。そんな人おるん?って私はツッコミましたが、大当たり。樺坂鉱山のズリに鉱石採集しにこられたグループと出会いました。やまあそさんは、話しかけられていますが、向こうは、鉱石に夢中で、聞き流し??
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(鉱山入り口の看板)
手には、緑色の鉱物をふくんだ石(サーピエリ石というらしい)を持ち、ルーペで観察されています。
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(これが、サービエリ石だそうです)

鉱石採集の方は、川の堰堤の上にあるズリへ行かれるそうですが、わたしたちは青倉神社へいくので、右手の沢沿いを歩きました。

最初に、看板見つけました。
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「青倉神社160m 自然のクーラー100m」とあります。

まずは、青倉神社を目指しました。
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石の階段があったので、すぐにわかりました。
階段をのぼって、なるいところがちょっとあって、また階段があり、のぼりました。
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(あとで、観音寺地区で偶然であった寺総代のオイサンのお話では、このなるいところは「籠もり堂」があったそうです)

登っりきると、右手に、何か良くわからないけど、長い石が立ててあって、その上に平たい石が乗っていて灯籠のようなものがありました。
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奥には大きな岩があり、そこに鉄の柵がありました。
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鉄の柵はさびていて、開きません。
隙間から覗いてみると、「青倉大明神」のお札がおまつりされていました。
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(たしか、大屋町の御祓山のふもとの産霊神社にも青倉大明神の掛け軸があったことを思い出しました。やまあそさんいわく「あの近くに青梅鉱山があるから、そういう関係だと思う」とのこと。逆に、青倉さんに参ったときに灯籠などに、大屋町と彫られているのを思い出しました。)

後で、わかったのですが、階段を登りきったところにあった灯籠のような石はおそらく「陽石」だったろうと思います。そのときは、灯籠にしては、くりぬいた穴がないし、石碑にしては何も文字が刻まれていないし・・・。でも下にはミニチュアの鳥居があるし・・・・と見ていました。
ちょっと脱線しますが、本家の青倉神社の御神体が陽石だと、かつて、青倉神社を管理していた納座のお坊さん(真言マスター)が教えてくださいました。それに、おじいちゃんから聞いた子授かりの籠もり堂の話をあわせてみても、そうだと思いました。
マスターは「青倉さんの御神体である大きな岩は“男性のシンボル”、行者岳の行者堂にある岩の割れ目は“女性のシンボル”。岩津の岩屋観音の洞窟内に安置されている石仏たちが“子ども”で、この三ヶ所はセット」とも言われていました。
また、PSWさんは「坑口は女性。生野では坑口の周りに男性シンボルの線刻を彫るのは、おそらく、鉱物という“子ども”をたくさん生み出すためやろうなぁ」と言われていました。PSWさんは、こういうことをはじめとする鉱山関係のことにはとても詳しいので、詳しく知りたい方は、直接聞いてくださいね~。


降りてくると、狸掘りの坑口がありました。四角く掘ってあるので、おそらく、江戸時代の穴だろうとおもいます。
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いくつかありました。

そして、沢沿いで、やまあそさんが叫ばれました。何かと思いいくと、行場?垢取り場?がありました。
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そこにはお不動さんがお祀りされていて、ちゃんと棚もあります。
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そのお不動さんを観察しているときに、やまあそさんが、背に彫ってある文字を発見。
「昭和九年 生野町 樺坂鑛山主 安井至」と書かれています。
やまあそさんから頂いた資料には、明治9年から昭和13年まで父の金助さんと至さんがこの鉱山を稼行しましたとあります。(あとで、生野のPSWさんに確認したら、安井至さんは元・生野町長だったそうです)

 青倉神社の水は、ホウ酸を含んでいて、目薬になります。鉱山で働く人は、掘っているときに飛び散った石などが目に入ったるすることで目を患うことが多かったそうです。当時の樺坂鉱山主が同様の目的でお祀り
されたのだと思います。

そして、そこから樺坂峠を目指そうとなりましたが、足元が悪く、倒木も多いので歩きでは断念。車で行くことなりました。
引き上げる途中で、自然のクーラーを見つけました。
看板を見たときは何のことかと思いましたが、見て、なるほど!
坑口から吹き上がってくる冷気をパイプでコンテナに送り込んでいるのです。
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(トタンの下に隠れている坑口から、下のパイプへ)
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吹き上がってくる冷気で、眼鏡のレンズが真っ白になりました。

いろんな発見をしてわたしたちが樺坂鉱山を引き上げようとしたとき、新たに2人の男性がやってこられました。この方たちも鉱石採集だそうです。でも、先ほどの団体さんとはまったく別グループです。今日は、鉱石発掘のイベントの日?というぐらい、たくさんの鉱石採集の方と出会いました。
そして、からみ石を見つけて、ここの調査は終了。
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(きれいに金属が溶けているので、おそらく最近のからみ石やとおもいます)

 鉱山からは歩いて樺坂峠にいけなかったので、車で、そこに行くことになりましたが、その途中にある、観音寺へ寄りました。こちらも法道仙人の開基だそうです。
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でも、人気がなし(無住職だそうです。でも、何かあるときには、明石からお坊さんを招くそうです。やまあそさんいわく、わざわざ遠く明石のからお坊さんを招くというのも、観音寺地区の歴史と関係があるかもといわれていました。)

そして、樺坂峠の石仏へ向かいますが、土砂崩れで、断念・・・・・。
完全に行くことができませんでした。
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やまあそさんの話では「樺坂の峠には石仏がある」んだそうです。

仕方なく、バックして、観音寺集落の公民館の横でいたお地蔵さんを見に行きました。
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左には文字があります。(「このうえは寺道」らしい)

私たちが、写真をとってうろうろしていると、現・寺総代で元・区長さんのオイサンとであい、先ほどみた樺坂鉱山内の青倉さんの話を聞きました。それに、観音寺は、昔は、もっと北のほうにあったことも教えていただきました。
でも、そのオイサンの話では、古いことはちゃんと聞いてないからようわからんとのこと。古いこと(郷土史)は高岸の方に問うたらわかるかも、と教えてくださいました。


 観音寺地区を後にして、次にいくのは、鳥羽(とりま)の青玉神社。
その途中に、お相撲さんのお墓をみて、
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三国岳から千ヶ峰に出来つつある林道を見ました
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(神河側からだと、この林道がみえないので、わからなかったですが、多可からよく見えます!みるほどに、ごうがわきます)


そして、鳥羽の青玉神社へ。
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鳥羽は、元々は「播磨、但馬、丹波の国境にそびえる三国岳の頂上付近に鎮座し、後に村里へ遷座した『式内社天目一神社(あめのまひとつじんじゃ)(後に青玉神社と改称)』の「祭場(まつりば)」が「とりば」となり、「鳥羽」の文字が当てられ「とりま」と呼ばれるようになった」といわれています。

青玉神社に入っていくと、腰掛岩があります。
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三国岳に行ったときに、「播磨のおどりば」を見たのですが、ここから神社が降りてきているのです)
その看板にはこのように書かれています。
その昔、井ノ岡(猪ノ岡)という狩人が(のちに稲岡大明神としてお祀りされている)三国山に狩りに行った帰り道、背中が急に重くなり、ここ迄やっと辿りつき動けなくなった。この石に腰掛け、しばらく休んだ後帰ろうと立ち上がれ背中が急に軽くなった。急いで村に帰りこの事を村の人に話した。村の村長がそれはきっと神さまやと言った。それから村の人は口々に青玉さまを背負ってきたのだ。ここに神さまを祀れということだといって、その後にこの地を拓き清め青玉神社として祀ったそうである。



その後ろの池には、青い玉・・・。(このせいで、私は、神社の由来は「青い玉」とばかり思い込んでいました。視覚って怖いですね)

神社にあがると、青玉神社の由来が書いてありました。
 弥生時代、但馬の豪族天日鉾が『アマノヒボコ』の尊が、古代国造りの要衝-政治と鉱物資源開発のため、但馬・丹波・播磨の国境三国山頂の『踊り場』に祖神の天目一箇神『アマノメヒトツノカミ』を祀り行政の証とした。千八百年以前、二世紀頃と推定される。踊り場は神々の『まぼろば』であり、後に播磨・丹波の民がこの広場に集まり、踊りによって祖先の霊と一体になった。護摩焚きも行われた。『御神霊』は奈良の都の造営(710年)ごろ、奥播磨賀眉の里の各集落の主神(氏神)として、オオタマ=青玉の森に祭られた。南の庄の大歳の神(オオトシタマ)も祀られた。御神木の『夫婦杉』が千年余りの大昔を偲ばせる。『青玉さまは、三国峠を越えてきた出雲の神さまである』という伝承がある。事実、弥生文化(稲・銅・製鉄・紙等の技術は)三国峠を越えて奥播磨に伝わった。青玉神社は『鍛冶の神様』の全国的な元宮である。・・・(以下省略)

青玉は青い玉ではなくて、ここには「オオタマ」が「アオタマ」に変化したと書いてあります。
それを見たやまあそさんは「アオタマがオオタマから変化したのであれば、アオクラはオオクラが変化したのかも」といわれました。たしかに、青倉さんには、大きな大蔵(岩)である、陽石があります。
でも、他にも「青倉とは、青=太陽、倉=岩で、『太陽が上がる山(巨岩)』という節もあるし、金属の中では青=銅を表すこともあると、いろいろ教えてくださいました。
(話が変わりますが、私が京都にいたころは、岩倉(いわくら)というところに住んでいました。私はその地名の由来は有名な岩倉具視からかなぁと思っていましたが、地域のおじいちゃんに「ちがうで。平安京ができたころ、東西南北を守る岩がそれぞれにお祀りされたんやけど、その中の北の石があるから、岩倉ってついたんやで。ほれ、ここの神社のあそこにある」と教えてもらって、見に行ったことがあります)

御神木の夫婦杉。
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(樹齢千年以上らしいです)

鳥羽の青玉神社を見学した後は、すぐ横の三国岳登山コース林道へ行きました。
そして、道標発見。
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「右 あ於くら  左 うめが坂」とあります。(うめが坂は、梅ヶ畑の洞滝にいったときにいきました)

横には、「永(氷)上郡 富田村 施主 寅蔵」とあります。
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やまあそさんは、「きっと、この富田村の寅蔵さんも、目の病気で、この道で青倉さん参りをしてしていたんやとおもう。それで、治ったから、そのお礼にこの道標をつくったのかも」といわれています。


次は、山寄上の青玉神社です。
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裏をには願掛けがありました。
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それ以外は普通の村の神社といった感じです。
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でも、やまあそさんは三国岳山頂が見えるといわれました。
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そして、ここは青玉神社が元あった場所を見ることが出来るからここに神社を建てたのだとおもうと教えてくださいました。


次は、西脇の天一神社です。
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この天一というのは、青玉神社と同じく「天目一箇神」をお祀りしています。(ただ、それだけで、お参りしました)
平安時代の延喜式という書物には、多可に天目一神社があったことが記されていますが、いつのまにかなくなったようです。明治時代の、明治時代の神仏分離令が出たときに、天目一神社をつくろうなり、いくつか候補が挙がったのですが、もともと天王社だったこの地が選ばれて、天目一神社になったそうです。
ここにきたときには、もう青倉さん、青玉さんにつかれて、さらっとみて終わりました。


というわけで、今回の青玉神社~青倉神社のお参りコースの下見は終わります。
本番の青玉~青倉ウォーキングが楽しみですね!(おそらく私の足では歩ききれないので、途中は車でショートカット??)

ちなみに、祖父の話では、作畑からは「吹上から、青草峠を越し、簾野→黒川で大明寺をお参りして、青倉さんへお参りにいっていた」そうです。帰りはJRを使うこともあったとか。
「昔の人はすごいなぁ」という言葉につきます。
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by deity_river | 2011-09-19 10:50 | しゅみ

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