2013年 04月 21日
三ツ山大祭へいってきました。
三ツ山大祭が20年に1度なのは、伊勢神宮の式年遷宮と同じです。式年遷宮が行われるのは、宮大工さんの技術の継承と聞いたことがあります。そういう意味かなぁと思っていたのです。
4月6日。
播磨国総社に入ると、手洗場があります。水の出るところは龍で、いたって普通に見えますが、龍の胴体が違います、からみ石が盛ってあります。
これをみて、総社は鉱山と関係あるのではないのか?とおもいました。
総社からでると、高さ18mの置き山が、どーんとありました。
そもそも、三ツ山大祭の始まりは、藤原純友の乱・平将門の乱を鎮定するため、天慶2年(939年)に斎行された「天神地祇祭」に由来するとされています。
東から「二色山」「五色山」「小袖山」となっています。
二色山は青と白の二色の布で巻いてあり、富士山を表しているそうです。そこには「仁田四郎猪退治」の絵がかかれています。仁田四郎の猪退治は、富士山麓で行われているので、なるほどと思いました。
五色山は青・黄・赤・黄・紫の五色の布で巻いてあります。この五色は五行思想からきているのかな?と思いましたが、高貴な色5色だそうです。そこには、「大江山の鬼退治」がかかれています。
この二つの置き山は姫路城の殿様が、お金を出していたそうです。今は、県や市が出しているそうです。
小袖山は、たくさんの着物が貼り付けてあります。これは、昔から、姫路の人々の寄付によって作られていています。全部で八百八もの着物が使われているそうです。厄落としという意味と、お迎えした神さまの夜着になるそうです。
ここに使われた着物は、お祭りが終わると、燃やされるそうです。昔の人こそ、着物を着ていましたが、着物を着る人が少なくなるので、いつかは、洋服の小袖山ができるのでは?と思いましたが、100年先の三ツ山大祭に使われるぶんまでの着物のストックはあるそうです。それ以降は、もしかすると、洋服の小袖山になるかもしれませんね。そこいは、「三上山のムカデ退治」が書かれています。
前に、本で、「毘沙門天は鉱山で働く人に信仰されていて、毘沙門天の眷属がムカデで、ムカデは鉱山の隠語である。つまり、鉱山の神=ムカデ=毘沙門天」ということと、「大江山の鬼は、鉱山・金属精製に関わ. る民の首領だった。つまり、鬼=坑夫=鉱山があった」ということを示していて、どちらも、鉱山と関係のある内容だなぁと思ってみていました。
ガイドさんに聞いてみると、鉱山とは関係なく、明治以降に強い武士を表すのに、この3つの絵柄を選んだと教えてもらいました。江戸時代は、武士の世の中だったので、絵で武士を描く必要はなかったということです。
でも、ムカデ退治をした、田原藤太は藤原秀郷といい、平将門を射た人物であり、ここにかかれる理由がわかります。藤原秀郷の子孫は、奥州藤原氏で、源義経が逃げてきました。そんなお話から、小袖山と二色山は繋がります。
また、大江山の鬼退治には、姫路の赤松さん?も同行していて、大江山の鬼を総社境内に埋めたそうです。いまでも、あります。
しかし、総社はもともと現在の姫路東高校のところにあったのですが、豊臣秀吉が姫路城を改修したときに、ちょうど城の東側にあったので、京を拝めないということで、現在の場所に移築したそうです。なので、鬼の首も元々は東高校のところにあったらしいです。
ガイドの方からは、播磨総社の神さまは2柱おられて、兄の射楯大神(五十猛)と弟の兵主大神(大国主命)です。兄は、植樹の神さま、弟は鉱山の神さまです。なので、三ツ山には、松の木が刺さっているのだそうです。
三ツ山祭りは、それぞれの置き山のてっぺんに設けた山上殿で、播磨国・日本全国から神さまが集まってきて、射楯と兵主の神さまがおもてなしをしているそうです。
つまり、三ツ山祭りの間は全国の神さまは播磨総社に集まっているので、空ということになりますね。
そういえば、総社のまわりで、たくさんの神主さんを見かけたのですが、どうやら、自分の神社の神さまが総社にいくので、みんな行っているとのこと。なるほど。神主さんが、連れてきている?
置き山の絵柄と鉱山の関係は、全く、自分の勝手な想像で、本当に関係があるのかは、わかりませんが、こうやって、いろいろ想像するのはとても楽しいです。
これは、40年前の置き山。
これは、1953年のパンフレット。
総社に行く途中には、たくさんの造り物みました。
参拝するだけで、七難苦役を逃れられるという、三ツ山祭り。
二十年後の自分の年齢を考えると恐ろしいですが、次回も元気にお参りできたらいいですね。
by deity_river
| 2013-04-21 00:01