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1月14日は大忙し

 1月1日の元旦から1月14日までの間を「松の内」といいます。
14日にはお正月のお飾りや門松、書初めを燃やす「とんど焼き」がありました。
 このあたりでは「とんど焼き」は隣保ごとに行われ、だいたい三叉路のところ(どんなに小さくてもいいので、道が交わっているところ)か橋の下でされます。というのも、もともと「とんど焼き」は道祖神(集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などにおもに石碑や石像の形態で祀られる神)に由来しているそうです。

 「とんど焼き」というものは「民俗学的な見地からは、門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされる」そうです。参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A6%E7%BE%A9%E9%95%B7(左義長)

 だいたい、午前中のうちに木を組んだものに竹を立てかけ燃やす準備をします。午後になり、お飾りや書初めをもった人が集まってくると火をつけます。竹は燃えるとパーンと大きな音をだします。近所のおじいさんのお話ではこの音がよく響くほど良いんだとか。
 火が大きくなってくると子ども達は自分の書いた書初めを火に入れます。その半紙が空く登るほど字が上達するそうです。また、お母さん方は飾っていた鏡餅を青竹にはさんであぶられていました。その鏡餅は一晩神様にお供えして、15日の朝に「小豆粥」にして食べるそうです(私も作りましたが、塩味なのでとってもお腹に優しいです)
 また、とんどの燃えた炭でおでこに丸を書きます。それをすると風邪をひかないそうです。「いんのこ」というそう。また、この炭を家の敷地の周りに蒔いておくと、悪いものが家に入らないそうです。



 夜7時ごろからは作畑地域にだけに残る「狐がえり」があります。
作畑の一番北の隣保では北隣の新田集落の境目の「山ノ神」というところでとんど焼きをされます。そこに集落の人があつまり、みんなでお祈りをした後に、大きな御幣を担いで、爆竹を鳴らしながら、集落の一番下の南隣の大畑地区の境のところまで歩いていきます。その爆竹を着火するのに、その山ノ神のところでされたとんどの火を使っていそうですが、いまではされていませんでした。いまでは爆竹を使っていますが、昔は火薬のみの鉄砲を撃っていたそうです。
 歩く時には掛け合いの言葉もあります。

親:ワリヤナニソソウロウ
子:ワカミヤノマツリトテキツネガエリソウロウ
親:モウヒトコエショモウシマショウ
子:ゴジョウナリソウロウ
親:モウヒトコショモウシマショウ
子:ワイワイワーイ
親:モウヒトコエカリモウソ
子:ワイワイワアーイ

というそうです。私は、爆竹の音にびくびくしながら歩いていたので、そんなに大きな声では言えませんでした。(これから右耳が少しおかしくなりました・・・)

 集落の一番南まで爆竹を鳴らしながら歩いていくと、今度は一言もしゃべらずに公民館にゆき、ご飯を食べます。一言もしゃべらないのは、せっかく追いはらった悪いものも、しゃべりながら集落に戻っていくと、後ろをついてき、集落に戻ってくるそうです。
昔はそのご飯を食べるところは、公民館ではなくて「お日待宿(オヒマヤド)」というところでした。「お日待宿」というのは、その年に新築されたり、改装された家がなることが習慣でした。最近まで、この習慣はあったそうですが、今では新しく改築される家もすくなくなり、公民館でするということになったそうです。

 なぜ、このあたりでは作畑の集落のみ「狐がえり」をされるようになったのでしょうか?
それは作畑の神社は集落の最も下手にあり、それはあまりよくないということだそうです。一般的に集落の中心もしくは上手にあるものだそうですが、作畑は違います。そのため、豊作と疫病退散を願って、「狐がえり」がされるようになったそうです。狐というとあまりよくないイメージがありますが、ここでは狐を「神様のお使い」として敬うような行事だそうです。

 「狐がえり」は、昭和30年末を最後として一度は途絶えてしまった行事だそうですが、地域の人達が復活を願い、いつからかされるようになりました(地域の人に聞いても、はっきりとした時間は不明)。
 時代の流れから、鉄砲が爆竹になったり、お日待宿が公民館になっても、こうして、一度途絶えた文化が、よみがえることはとても良いことだと思います。
by deity_river | 2008-01-26 11:07 | ぎょうじ

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