「弾丸列車」という存在を知ったのは、先日の但馬妙見山歩きのとき。
明治時代に、日光院が、妙見山で育った杉の木を切り出し、八鹿駅まで運ぶために、小佐谷にそって、森林鉄道が走っていたそうです。その列車は、木の重さと傾斜のエネルギーだけ動き、弾丸のように早く駆け下っていたので「小佐谷の弾丸列車」といわれいていたそうです。(くわしくはこちらから)

 伯父さんから頂いた但馬妙見の資料に弾丸列車の軌道跡がありましたが、なんか、ちょっとおかしい(適当)です。
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やまあそさんも、手元に但馬妙見の弾丸列車の軌道跡の資料があると言われて、見せていただきましたが、わたしのと微妙に違います。
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(このあたりは正確そう)

というわけで、なるべく当時の弾丸列車軌道跡にそって、歩いてきました。

 9月25日。 
メンバーはやまあそさん、TQFさん、そして、はじめましての廃道とチャリが大好きK山さんです。

 八時半に八鹿の道の駅に集合して、まずは、日畑集落を目指します。
椿色(つばいろ)から、まっすぐいくと、名草神社ですが、今回は日畑へ行くので右折です。
日畑へ続く山と川に挟まれた細い道を行くと、道の脇で、「日畑谷 遭難者碑」という石仏がありました。これは、弾丸列車でなくなった方を弔う石碑だそう。
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そして、日畑集落へ入りました。ここは先ほどの細い道からは想像できないぐらい、土地が開けていて、おうちもたくさんあります。
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やまあそさんは、田んぼの作業をしているオイサンに「弾丸列車」のことを聞かれていますが、オイサンいわく「わしの親父とかの世代やから、わからん」とのこと。
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そして、日畑集落から加瀬尾集落を目指しました。
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(橋を渡る)
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加瀬尾集落へは、椿色からまっすぐに道路が出来ていますが、昔はこの道を使って生活をしていたようです。この道の脇には新旧の電柱があります。
峠道を歩いていくと、急に開けました。加瀬尾集落です。
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ここには、おじいちゃんがお一人お住まいだそうです。集落を歩いていると、そのおじいちゃんと犬に出会いました。おじいちゃんいわく「ここは冬になると2mも雪が積もる。妙見は4mや」と。
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(でも、犬がびっくりしてわんわんほえて会話にならず・・・)



加瀬尾集落の棚田跡を登って、弾丸列車の軌道跡の調査開始です。
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斜面を登っていると、道路に出ました。
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石原から名草神社への道路です。そこから参考資料の地図は大体の位置でしか軌道跡が書いていないので、地図と地形を見比べて歩きはじめると、最初に、昔の妙見参りの尾根道がありました。
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(妙見参道を歩いてみるわたし)

祖父からは、青年学校時代に「九鹿から椿色、石原の日光院の裏を登って、名草神社までは尾根道を歩いた」と聞いていました。まさに、その道です。祖父は、ほぼ70年前にこの道を歩いていたことになります。

その参道があるところの斜面を適当に下っていると、斜面に幅1,5mぐらいのなるい道のようなものを発見!!やまあそさんは「これが、弾丸列車の軌道跡や!」と興奮されています。斜面から軌道跡の途中に降りてきたので、さかのぼって、軌道の始まりを見に行きました。すると、さっきの、加瀬尾の棚田跡から登った道とぶつかりました。やまあそさんと、TQFさん、K山さんは「これは、棚田の一部かとおもって、見逃していた」と言われています。私は、つかれていて、もうすぐ、道路やということで頭がいっぱいで、全く見ていませんでした・・・。

そして、いよいよ弾丸列車の軌道跡をたどります。
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ここは、いくつかある弾丸列車の軌道の中の「桜谷支線」というそうです。ここからは、ずっとくだりです(下りでないと、進みませんもんね・・・)ちゃんと道が残っていて、へたれの私でも、ルンルン歩けます。
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(軌道跡に大木が・・・!木の成長ははやいんですね)


沢を渡る。
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まだまだ気持ちよい軌道跡は続きます。
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高度が下がってきたら水辺が近くなるので、軌道跡が崩れています・・・。
そして、南土場へつきました。
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谷なので、道が崩れかけています。ここから奥には、「妙見支線」があったようです。
川の対岸には、「大石谷(おいしがたに)支線」があったそうです。

そして、「いってこい(スイッチバック)」を歩きました。
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そして、今日の一番の難関?の川渡りです。
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TQFさんは、怖いという気持ちをあまり感じないのか、ひょいっとわたられています。
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わたしは、いつもどおり、ワーワー言いながら渡りました。(おしりからどぼんといかなくてよかった・・・)

TQFさんはそれよりも、この沢のお魚が気になる様子です。
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川を渡ったところには、資料には、ここには「妙見山神様(山の神さん)と一本杉」が書いてありますが、今はありません。


 すんなりと(?)軌道跡を歩けたので、次は、日高の観音寺地区からの妙見参道を歩きました。
今までゆるやかな下りだったのに、今度は登りなので、バテバテでなかなか進まなくて、TQFさんと、やまあそさんに押してもらいながら、歩きました。
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(つかれた背中)

しばらく歩くと、道標がありました。
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「右 おさたに   左 くわんおんじ こくぶんじ 道」です。
そこからもうちょっと、のぼると、休み堂がありました。ここで昼食です。
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そして、道標のところに戻ってきて、観音寺方面を目指します。
道標の裏には、石仏。
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続いて、磨崖仏があります。
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いい妙見参道が続いていますが、だんだんなんだか、怪しくなってきました。倒木ありの、道くずれありの・・・。
しばらく歩いていましたが、大きく崩れている場所に着きました。わたしがビビッているし、K山さんも普段は山歩きをしていないので、ちょっと怖かったらしく、やまあそさんとTQFさんが先に道があるか確認されました。待つこと約30分(?)。ここから先は、道が崩れているし、資料の妙見参りの道と違って、斜面をおおきく巻いているので、ここから先は厳しいとのこと。
あきらめて、引き返しました。
途中、行きに歩いてきた妙見参道ではなくて、尾根をあるきました。
そしてら、怪しい山小屋発見。
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そこから、ソマ道があったので、歩いていくと、妙見参道と合流して、川をわたっところへ戻ってきました。
これで、妙見参道歩きは終了です。

川沿いの日畑への道を歩いて、スタート地点となった日畑集落の中心へ戻ります。
その途中に石仏がありました。女性で、目を瞑っています。
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豊岡累層がありました。ここには、丸い石が多数見られます。御祓山でもみた「れき岩」です。
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そのここからジャワーのように水が降って来ていたので、やまあそさんは恒例(?)の水浴びをされていますが・・・。
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(暑いな~!)

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(どーん!)(やめてよー!)

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(あーつめたかった!)

そして、日畑集落へ帰って来ました。
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日畑にはこのような言い伝えがあります。
<日畑千軒>
 その昔、日畑には人家が千軒もあったという。妙見山の麓の谷間・日畑川の上流にどうして千軒も家があつまったのだろう。
 それは鎌倉時代(1185~1333)、源頼朝が征夷大将軍となって武家政治の基を固めようとしていた頃、日畑の山から質のよい鉱脈が見つかった、銀も多量に含まれていた。
当時の人々は、“石のみ”を持って、こつこつと鉱脈を探りながら掘っていった。
 今もその頃、掘ったという坑口が、日畑集落の上の方の山腹に雑草に覆われた口をのぞかせている。続々と金の採取には人が集まってきた。鉱石を砕いたという大きな石臼が今も旧家の庭に残っている。家数がどんどん増えて、採鉱の盛んなときには、千軒にも達したという。今も残る“精錬畑”や“鍛冶畑”という畑の俗称は、小規模ながらもその頃の人々の仕事場の名残であろう。坑道の深さは20メートルから30メートル位のもので。人間が腰をかがめてやっと通れるぐらいなものであるが、坑口は30位を数えるという。
 今、日畑集落が山の斜面の段々に建てられた家の集まりであるが、千軒もあったという頃は多くは加瀬尾側にあったと言われている。



まずは、みんなで日畑の三柱神社にお参りです。
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狛犬は加瀬尾の方の名前があります。
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加瀬尾という地区は日畑ととても関係があるのです。
 <加瀬尾のおいたち>
 妙見林道を登りつめて、村岡町に通じる分かれ道より妙見より谷川から遥か眼下を望むと、雄大な山肌を曲がりくねりながら上、中、下、三本の水平な溝筋が延々と果てし無く続きます。加瀬尾は日畑の先祖の人たちによって開拓されたといわれています。この村は高層地で、妙見の谷川の水を引かねば飲料水もありませんでした。 
 元禄14年(1701)日畑の庄兵衛さんが加瀬尾新田開発申請を願い出ております。それから5年後に人が住み着いたといわれておりますが、加瀬尾の人たちは生まれ育った日畑が恋しくて、加瀬尾から日畑にある我が家が見下ろせる場所に家を建て、朝夕手を振って合図しながら暮らしたということです。
 人々が生活するのに最も必要なのは水ですが、開発には多額の資金を必要とします。村人も、妙見との落差のほとんどない水路の構築も、人間の英知と労力を積み重ね積み重ねて、約16年の歳月を費やして村が出来たそうです。 
 最近では加瀬尾も例の過疎の波で約10軒に減ってしまい(※今は1軒)、家の周囲の田畑には杉が茂ってきましたが、先人たちの開拓えの辛苦を思うときへ感慨無量のものがあります。幸いに加瀬尾は平坦な土地であるために、旧八鹿町で一番広い田圃がこの村にあります。


みんなで神社にお参りしたのに、坑口探しになると、なぜか、おじさんたちお兄さんたちは、勝手気ままに行動。私は、どうしていいのかわからずに、ひとり、墓地でうろたえていました。

そうしていると、やまあそさんが、坑口を発見したと叫ばれたので、見に行きました。
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(ありましたー)

この坑口ではないかもしれませんが、三柱神社の近くにある坑口にはこんな言い伝えがあります。
<神さまのたたり>
 日畑の氏神は三柱神社です。この村が千軒もあったといわれる頃、金、銀の鉱脈を探しもとめて他国からもぞくぞくと人が集まってきました。
 たまたま三柱神社の近くで質のよい鉱脈が、多量にあることが見つかりました。大勢の人が奥へ奥へと掘り進んでいきました。20メートル、30メートルと掘って、ちょうど神社の真下あたりに進んだとき、細い坑内にたくさん灯していた火が、風もないのに一度にプッツリと消えてしまいました。真っ暗になった坑内では、人夫が頭痛に耐えられなくなって、一人減り、二人減ってとうとう発掘を中止してしまいました。
 これはきっと氏神さまの“たたり”だと人々は恐れをなして。それから後は誰一人としてその坑道へはいるものがありません。いまでも三柱神社の地底には沢山の金鉱が眠ったままだと伝えられています。 
 昔の人々は神のタタリだと考えたことと、現代人はどのように判断するでしょう。おそらく坑内に炭酸ガスかが充満したか、あるいは異常なガスが発生したかものと考えるでしょう。そだとすれば地下に眠る多量の金鉱も発掘の方法があるということになります。


わたしたちが、神社下の坑口を見ている間に、TQFさんは、墓地の裏の坑口を発見されたよう。

あれ?K山さんは??

TQFさんと合流できましたが、K山さんの姿がありません。
しばらくしてひょっこり現れました。K山さんは、ひとつも坑口をみていないといわれているので、やまあそさんが案内。

先に、TQFさんと車のところへ戻りました。その途中に、こんなの発見。
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そして、みんな合流して、解散しました。


 軌道跡には、特にレールもなく、ちょっとひろい道のようなもの以外は何も残っていませんが、かつてはレールがあって、妙見杉が運ばれてい当時の様子を想像することが出来ました。
妙見参りの道もしっかりと残っていたので(一部をのぞいて)、いかに多くの人が歩いていたかを想像することができます。


 昭和16、17年ごろ、八鹿駅前の井上製材で働いていた祖父は、その弾丸列車は見ていないそうですが、代わりに、バラスを運んでいるトロッコを見たそうです。ということは、昭和のはじめには、弾丸列車の軌道は木は運ばずに、石を運ぶ役目に変わったのかもしれませんね。

 今回もとっても楽しい時間でした。ありがとうございました。

ピンク太いマークが今回歩いた「桜谷支線」の軌道跡です。
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  追記。
 その後、やまあそさんが日畑集落を再訪されて、聞き取りをされたところ、今回歩いた「桜谷支線」は木馬道で、南土場には堰があって木を貯めておくところだったそうです。
妙見山から切り出された杉は木馬で山から下ろした後、南土場から始まる弾丸列車にのって、八鹿駅まで運ばれたそうです。
やまあそさんのレポートはこちらから。
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by deity_river | 2011-09-29 22:27 | しゅみ

くら筆3

 今日は、「わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて」です。

最初の「わ」がいきなり難しくて、大変でした。

今日は「わ」「れ」「ね」の違いを勉強しました。

鉛筆で書くと、この3つの文字はよく似ていますが、
「わ」は<のぎへん>、「れ」と「ね」は<しめすへん>なので、筆なら、運びが全然違うことを発見!
ねの最後のくるっとまわすところも、「祢」から変化しているので、くるっとするのではなく、点を意識します。

漢字にすると、
「和加与太礼曽 川祢奈良武 宇為乃於久也末 計不己衣天」でした。


今日も楽しい時間でした。
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by deity_river | 2011-09-29 22:09 | しゅみ

 とっても遅くなりましたが、「Nature Style しんぶん 8号」が刷り上りました。
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今回は『秋祭り』特集です。

 もうすぐ秋祭りですね。
夜になると、太鼓の練習の音が聞こえてきますし、道にも地区のメインカラーの神手棒が立ち、いよいよかとおもいます。

 
 そして、わたしは、8月7日にあった民俗辻広場まつりの手づくりテントでも出品していた冊子『山と川のあいだで <年中行事編>』を神河町と福崎町の各所で販売し始めました。
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<販売場所>
福崎町では、
gallery&tearoom りんごの木 さん

神河町では、
ぎゃらりー&喫茶 やまだ さん
観光交流センター(カーミンのおうち) さん
と、
わたしのおうち  です。

私に直接問い合わせていただいても大丈夫です。
deity_river@excite.co.jpまで
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by deity_river | 2011-09-29 21:47 | しゅみ

 9月27日 朝日新聞の兵庫版に祖母と祖父の弟のお嫁さんが載りました。
(ちなみに、祖父の弟さんのおうちには「にじいろジーン」でロケされて全国放送されましたし、先日の秘密のケンミンショーの「からかわ特集」でもおいさんはちらりと出演されていました)


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中央拡大すると、はっきり祖母がうつっています。
取材が来たことは知っていましたが、まさか、こんなにおばあちゃんがドドーンと出るとはおもいませんでした。
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(っていうか、おうちの中やん~)

ネットではこちらから。


こんどは、祖父を某地方新聞に載せてあげたいなぁと企画しています。
願いが叶うのでしょうか・・・。

去年ぐらいから、井上家は親族総出(?)で、作畑のPR活動に力を注いでいます。
わたしも、負けへんでー。
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by deity_river | 2011-09-28 23:42

鉱山と神さま(その1)

 私の祖父母は、いまでも、青倉の神さまを信仰しています。
祖母は、春に青倉さんから頂いてきた水で目を洗っています。祖父は若いときは、作畑から、青草峠を越えて、青倉さんへお参りしていたそうです。それに、「親父は、若いときに、目をやんで、みえへんようになったけど、1ヶ月お堂に籠もとったら、見えるようになってきたんやで」という話も、聞きました。(祖父は「青倉は、目の神様であるけど、子授かりの神さまでもあって、子どもに恵まれない夫妻がお堂に籠もりよっちゃったんやで」ともいってました。)

 そんなあるとき、ふみゑさんの書かれた『峠の話』と出会いました。
それには、ふみゑさん幼い時に、父に連れられて、多可町から電車に乗り継いで青倉さんへ参った思い出を綴られています。ふみゑさんは「昔は山越えをしていたから、今よりずっと近かった」とも言われています。

それをみた、やまあそさんから連絡が来ました。
「多可町の鳥羽の青玉神社から三国峠に行く途中の分岐に「あおくら」とかかれた道標があって、その道標は山南町の人が寄進されています。ということは、この辺の人は、青玉神社の横を通って、青倉さん参りしていたはず。青倉と青玉はどちらも<青>がつくし、青倉は<目の神様>で、青玉は<鍛冶の神様>。この二つは関係があるのかも。」と聞きました。
しばらくして、「多可町の妙見山のふもとにある樺坂鉱山にも青倉神社があるし、山寄上にも青玉神社があるから、ついでに見に行きましょう。」と誘ってくださいました。

今回は、いつあるのかわからないけど、「青玉神社から、青倉神社へお参りしていたところをたどる」のための下見になります。


 9月18日。

 まずは、妙見山のふもとにある樺坂鉱山におまつりされてる『青倉神社』へお参りです。
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(観音寺地区の入り口にはこんな看板がありました。右上に「あおくらさん」とあります)

先日の台風のために、杉原川は土嚢がつんであったり、通行止めになっているところがたくさんあります。
そのために、迂回して、樺坂鉱山へ。
私たちの前を怪しい車が4台ほど走っていました。それを見たやまあそさんが「鉱山マニアかも?」といわれています。そんな人おるん?って私はツッコミましたが、大当たり。樺坂鉱山のズリに鉱石採集しにこられたグループと出会いました。やまあそさんは、話しかけられていますが、向こうは、鉱石に夢中で、聞き流し??
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(鉱山入り口の看板)
手には、緑色の鉱物をふくんだ石(サーピエリ石というらしい)を持ち、ルーペで観察されています。
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(これが、サービエリ石だそうです)

鉱石採集の方は、川の堰堤の上にあるズリへ行かれるそうですが、わたしたちは青倉神社へいくので、右手の沢沿いを歩きました。

最初に、看板見つけました。
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「青倉神社160m 自然のクーラー100m」とあります。

まずは、青倉神社を目指しました。
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石の階段があったので、すぐにわかりました。
階段をのぼって、なるいところがちょっとあって、また階段があり、のぼりました。
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(あとで、観音寺地区で偶然であった寺総代のオイサンのお話では、このなるいところは「籠もり堂」があったそうです)

登っりきると、右手に、何か良くわからないけど、長い石が立ててあって、その上に平たい石が乗っていて灯籠のようなものがありました。
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奥には大きな岩があり、そこに鉄の柵がありました。
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鉄の柵はさびていて、開きません。
隙間から覗いてみると、「青倉大明神」のお札がおまつりされていました。
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(たしか、大屋町の御祓山のふもとの産霊神社にも青倉大明神の掛け軸があったことを思い出しました。やまあそさんいわく「あの近くに青梅鉱山があるから、そういう関係だと思う」とのこと。逆に、青倉さんに参ったときに灯籠などに、大屋町と彫られているのを思い出しました。)

後で、わかったのですが、階段を登りきったところにあった灯籠のような石はおそらく「陽石」だったろうと思います。そのときは、灯籠にしては、くりぬいた穴がないし、石碑にしては何も文字が刻まれていないし・・・。でも下にはミニチュアの鳥居があるし・・・・と見ていました。
ちょっと脱線しますが、本家の青倉神社の御神体が陽石だと、かつて、青倉神社を管理していた納座のお坊さん(真言マスター)が教えてくださいました。それに、おじいちゃんから聞いた子授かりの籠もり堂の話をあわせてみても、そうだと思いました。
マスターは「青倉さんの御神体である大きな岩は“男性のシンボル”、行者岳の行者堂にある岩の割れ目は“女性のシンボル”。岩津の岩屋観音の洞窟内に安置されている石仏たちが“子ども”で、この三ヶ所はセット」とも言われていました。
また、PSWさんは「坑口は女性。生野では坑口の周りに男性シンボルの線刻を彫るのは、おそらく、鉱物という“子ども”をたくさん生み出すためやろうなぁ」と言われていました。PSWさんは、こういうことをはじめとする鉱山関係のことにはとても詳しいので、詳しく知りたい方は、直接聞いてくださいね~。


降りてくると、狸掘りの坑口がありました。四角く掘ってあるので、おそらく、江戸時代の穴だろうとおもいます。
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いくつかありました。

そして、沢沿いで、やまあそさんが叫ばれました。何かと思いいくと、行場?垢取り場?がありました。
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そこにはお不動さんがお祀りされていて、ちゃんと棚もあります。
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そのお不動さんを観察しているときに、やまあそさんが、背に彫ってある文字を発見。
「昭和九年 生野町 樺坂鑛山主 安井至」と書かれています。
やまあそさんから頂いた資料には、明治9年から昭和13年まで父の金助さんと至さんがこの鉱山を稼行しましたとあります。(あとで、生野のPSWさんに確認したら、安井至さんは元・生野町長だったそうです)

 青倉神社の水は、ホウ酸を含んでいて、目薬になります。鉱山で働く人は、掘っているときに飛び散った石などが目に入ったるすることで目を患うことが多かったそうです。当時の樺坂鉱山主が同様の目的でお祀り
されたのだと思います。

そして、そこから樺坂峠を目指そうとなりましたが、足元が悪く、倒木も多いので歩きでは断念。車で行くことなりました。
引き上げる途中で、自然のクーラーを見つけました。
看板を見たときは何のことかと思いましたが、見て、なるほど!
坑口から吹き上がってくる冷気をパイプでコンテナに送り込んでいるのです。
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(トタンの下に隠れている坑口から、下のパイプへ)
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吹き上がってくる冷気で、眼鏡のレンズが真っ白になりました。

いろんな発見をしてわたしたちが樺坂鉱山を引き上げようとしたとき、新たに2人の男性がやってこられました。この方たちも鉱石採集だそうです。でも、先ほどの団体さんとはまったく別グループです。今日は、鉱石発掘のイベントの日?というぐらい、たくさんの鉱石採集の方と出会いました。
そして、からみ石を見つけて、ここの調査は終了。
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(きれいに金属が溶けているので、おそらく最近のからみ石やとおもいます)

 鉱山からは歩いて樺坂峠にいけなかったので、車で、そこに行くことになりましたが、その途中にある、観音寺へ寄りました。こちらも法道仙人の開基だそうです。
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でも、人気がなし(無住職だそうです。でも、何かあるときには、明石からお坊さんを招くそうです。やまあそさんいわく、わざわざ遠く明石のからお坊さんを招くというのも、観音寺地区の歴史と関係があるかもといわれていました。)

そして、樺坂峠の石仏へ向かいますが、土砂崩れで、断念・・・・・。
完全に行くことができませんでした。
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やまあそさんの話では「樺坂の峠には石仏がある」んだそうです。

仕方なく、バックして、観音寺集落の公民館の横でいたお地蔵さんを見に行きました。
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左には文字があります。(「このうえは寺道」らしい)

私たちが、写真をとってうろうろしていると、現・寺総代で元・区長さんのオイサンとであい、先ほどみた樺坂鉱山内の青倉さんの話を聞きました。それに、観音寺は、昔は、もっと北のほうにあったことも教えていただきました。
でも、そのオイサンの話では、古いことはちゃんと聞いてないからようわからんとのこと。古いこと(郷土史)は高岸の方に問うたらわかるかも、と教えてくださいました。


 観音寺地区を後にして、次にいくのは、鳥羽(とりま)の青玉神社。
その途中に、お相撲さんのお墓をみて、
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三国岳から千ヶ峰に出来つつある林道を見ました
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(神河側からだと、この林道がみえないので、わからなかったですが、多可からよく見えます!みるほどに、ごうがわきます)


そして、鳥羽の青玉神社へ。
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鳥羽は、元々は「播磨、但馬、丹波の国境にそびえる三国岳の頂上付近に鎮座し、後に村里へ遷座した『式内社天目一神社(あめのまひとつじんじゃ)(後に青玉神社と改称)』の「祭場(まつりば)」が「とりば」となり、「鳥羽」の文字が当てられ「とりま」と呼ばれるようになった」といわれています。

青玉神社に入っていくと、腰掛岩があります。
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三国岳に行ったときに、「播磨のおどりば」を見たのですが、ここから神社が降りてきているのです)
その看板にはこのように書かれています。
その昔、井ノ岡(猪ノ岡)という狩人が(のちに稲岡大明神としてお祀りされている)三国山に狩りに行った帰り道、背中が急に重くなり、ここ迄やっと辿りつき動けなくなった。この石に腰掛け、しばらく休んだ後帰ろうと立ち上がれ背中が急に軽くなった。急いで村に帰りこの事を村の人に話した。村の村長がそれはきっと神さまやと言った。それから村の人は口々に青玉さまを背負ってきたのだ。ここに神さまを祀れということだといって、その後にこの地を拓き清め青玉神社として祀ったそうである。



その後ろの池には、青い玉・・・。(このせいで、私は、神社の由来は「青い玉」とばかり思い込んでいました。視覚って怖いですね)

神社にあがると、青玉神社の由来が書いてありました。
 弥生時代、但馬の豪族天日鉾が『アマノヒボコ』の尊が、古代国造りの要衝-政治と鉱物資源開発のため、但馬・丹波・播磨の国境三国山頂の『踊り場』に祖神の天目一箇神『アマノメヒトツノカミ』を祀り行政の証とした。千八百年以前、二世紀頃と推定される。踊り場は神々の『まぼろば』であり、後に播磨・丹波の民がこの広場に集まり、踊りによって祖先の霊と一体になった。護摩焚きも行われた。『御神霊』は奈良の都の造営(710年)ごろ、奥播磨賀眉の里の各集落の主神(氏神)として、オオタマ=青玉の森に祭られた。南の庄の大歳の神(オオトシタマ)も祀られた。御神木の『夫婦杉』が千年余りの大昔を偲ばせる。『青玉さまは、三国峠を越えてきた出雲の神さまである』という伝承がある。事実、弥生文化(稲・銅・製鉄・紙等の技術は)三国峠を越えて奥播磨に伝わった。青玉神社は『鍛冶の神様』の全国的な元宮である。・・・(以下省略)

青玉は青い玉ではなくて、ここには「オオタマ」が「アオタマ」に変化したと書いてあります。
それを見たやまあそさんは「アオタマがオオタマから変化したのであれば、アオクラはオオクラが変化したのかも」といわれました。たしかに、青倉さんには、大きな大蔵(岩)である、陽石があります。
でも、他にも「青倉とは、青=太陽、倉=岩で、『太陽が上がる山(巨岩)』という節もあるし、金属の中では青=銅を表すこともあると、いろいろ教えてくださいました。
(話が変わりますが、私が京都にいたころは、岩倉(いわくら)というところに住んでいました。私はその地名の由来は有名な岩倉具視からかなぁと思っていましたが、地域のおじいちゃんに「ちがうで。平安京ができたころ、東西南北を守る岩がそれぞれにお祀りされたんやけど、その中の北の石があるから、岩倉ってついたんやで。ほれ、ここの神社のあそこにある」と教えてもらって、見に行ったことがあります)

御神木の夫婦杉。
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(樹齢千年以上らしいです)

鳥羽の青玉神社を見学した後は、すぐ横の三国岳登山コース林道へ行きました。
そして、道標発見。
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「右 あ於くら  左 うめが坂」とあります。(うめが坂は、梅ヶ畑の洞滝にいったときにいきました)

横には、「永(氷)上郡 富田村 施主 寅蔵」とあります。
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やまあそさんは、「きっと、この富田村の寅蔵さんも、目の病気で、この道で青倉さん参りをしてしていたんやとおもう。それで、治ったから、そのお礼にこの道標をつくったのかも」といわれています。


次は、山寄上の青玉神社です。
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裏をには願掛けがありました。
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それ以外は普通の村の神社といった感じです。
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でも、やまあそさんは三国岳山頂が見えるといわれました。
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そして、ここは青玉神社が元あった場所を見ることが出来るからここに神社を建てたのだとおもうと教えてくださいました。


次は、西脇の天一神社です。
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この天一というのは、青玉神社と同じく「天目一箇神」をお祀りしています。(ただ、それだけで、お参りしました)
平安時代の延喜式という書物には、多可に天目一神社があったことが記されていますが、いつのまにかなくなったようです。明治時代の、明治時代の神仏分離令が出たときに、天目一神社をつくろうなり、いくつか候補が挙がったのですが、もともと天王社だったこの地が選ばれて、天目一神社になったそうです。
ここにきたときには、もう青倉さん、青玉さんにつかれて、さらっとみて終わりました。


というわけで、今回の青玉神社~青倉神社のお参りコースの下見は終わります。
本番の青玉~青倉ウォーキングが楽しみですね!(おそらく私の足では歩ききれないので、途中は車でショートカット??)

ちなみに、祖父の話では、作畑からは「吹上から、青草峠を越し、簾野→黒川で大明寺をお参りして、青倉さんへお参りにいっていた」そうです。帰りはJRを使うこともあったとか。
「昔の人はすごいなぁ」という言葉につきます。
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by deity_river | 2011-09-19 10:50 | しゅみ

 去年の暮れに、「いも峠」調査のために、歩いているときに、神崎の中心地を見渡せる場所に出ました。
そこで、やまあそさんが「根宇野のあの山が毘沙門山っていうらしい。毘沙門さまがいらっしゃると思う」といわれていたのが、頭の中に残っていました。

 そして、先日、但馬妙見山歩き中でも、やまあそさんは「笠形山にいくのに、古い登山コースがあるらしいで」といわれていました。なんかそれも面白そう。
そういえば、前に、ご近所の95弟さんと、どういう話からか忘れましたが、笠形登山のことで、お話していました。このときに、根宇野の方から、「昔は、毘沙門山の谷からのぼって、笠形山にいく道があった」きいて、それを探して実際に歩き、その付近で磨崖仏をみたと言うことも聞いていました。
私は、てっきり、95弟さんが歩かれた道を歩くのかと思っていましたが、やまあそさんの考えてくださったコースは95弟さんよりひとつ南の尾根コースでした。(途中で合流するのですが・・・)

というわけで、但馬妙見山以降の、笠形山への熱が冷めないうちに(?)笠形普通じゃない道で登山して、毘沙門山に降りていくコースを歩いてきました。
笠形山へ行くのは、私は「山ガール」以来なので、10ヶ月ぶりとなります。


 9月11日。メンバーは、やまあそさん、TQFさん、作畑ガールことわたくしです。

 9時に根宇野の首切り地蔵さんに集合です。
ここは境目といいます。何の境目かといいますと、姫路藩の旧・粟賀村と天領の旧・越知谷村の「境目」なのです。

そして、ゴール地点となる毘沙門山のふもとにTQF号をテポして、やまあそ号で、スタート地点となるグリーンエコーのオウネン平へ行きました。

コテージの間を抜けて、
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まずは、子育て観音さまを見学です。
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次に、オウネンの滝へ。
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そして、扁妙の滝です。
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ここからは、心臓破り(?)の長い階段があります。
ふらふらになりながら登っていくと、滝見台です。
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やまあそさんは、ここで、キャンプするのもいいかもしれないといわれています。

そして、そこからは、まえに山ガールで行ったときに間違った3合目手前の急な裏道(?)です。

その途中に展望のよさそうな岩場があり、登ってみましたが、扁妙の滝はそんなに見れず、ただ、足がすくんだだけ。
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三合目の看板の裏側から、普通の登山コースと合流しました。
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ちょうど、普通のコースで歩いてこられたファミリーと合流。


しばらく、登山コースを歩いていましたが、「木の札」があるところで、コースアウトです。わたしたちは812の尾根を目指しました。
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(わたしは確認していませんでしたが、どうやら、木の札には「神崎町粟賀」と書いてあったらしい)

地図で見るとそんなに斜度はなさそうですが、けっこうきつくて、私は、いつもどおり、「まだのぼるん?」「もうすぐ尾根?」とぐだぐだ言いながら、ゆるゆると登って行きました。しまいには、TQFさんに後ろから押してもらう始末・・・。
それを見た、やまあそさんは、昔、愛宕さん参りをする人のおしりをT字の棒で子どもが押すって言う仕事もあったんやでー。押される人も楽やし、押しているほうも勢いがつくから登りやすかったんやって~といつもどおり、雑学を話されています。
わたしは、今回も非常に体がおもくて、しそジュースで回復させながら、登りました。

尾根に出ると、そんなに苦しくはなくなりました。そこは、広葉樹なので、あるいていて、とても気持ちがいいです。

尾根を歩いている途中に、タマゴタケ発見。たべられるらしいです。
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(いだだきまーす??)

そして、分岐テープがありました。95弟さんは、この分岐の左尾根から登ってこられたようです。

それを過ぎると、徐々に、斜度がきつくなってきて、私のペースはさらに、落ちてきます。
のらりくらりとあるいていたら、ちょっと前を歩かれていたやまあそさんとTQFさんが、看板があるといわれています。
そこは、展望のよい岩場でした。眼下には上越知地域。そして、千ヶ峰も見えました。
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95弟さんのお話によると、昔は「天邪鬼の切り岩」(?)の看板があったそうです。今では、市川町青年団の杭しかありません。(はじめは、笠形から高坂峠の途中でみたことがある、天邪鬼の挽き石のことかと思っていましたが、別物だけど、関係があるようです。)

そして、さらに、勾配がきつくなっていきます。
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元気を振り絞って、歩いていくと、急に山頂に出ました。

笠形山は人気なので、いつもどおり、たくさんの人でにぎわっています。
お昼ごはんを食べました。

やまあそさんは偶然であった、先生(?)とお話されています。
TQFさんは無線をされています。
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わたしは、ゆっくりとご飯を食べていました。

そして、いつもの山頂コンサート。
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山頂でよく遊んだ後は、下山ですが、わたしはどこから登ってきたのかをてっきりわすれて、「こっちからかえるんですかー?」と聞いたら、二人に「どうしようもない頭やなぁ」とあきれられました。

そして、くだりはあっという間です。苦労して登ったのに・・・・・。


どんどん下って、「タマゴタケ」のところに帰ってきました。
おっちゃんおにいさん二人が怪しい撮影会をしています。
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そして、どんどん尾根沿いに下りてきました。ここは、あまり歩けれていないのか、尾根が藪になっていました。そして、574から毘沙門山方面小尾根へ下りました。

その分岐のところにはたくさん尾根があって、二人はGPSで確認して「GPSがないと間違う地形やなぁ」と言われていました。そして、ここからが、激下り。私は置いていかれます。
昔の私なら、もっともっとギャーギャー言ってなかなか降りてこなかったとおもうのですが、ギャーギャー言いつつも自力で降りてきました。
でも、途中に、腐った木にぶつかって、木の粉が頭に振ってきて、服に入って、パニックに・・・!!
TQFさんにしかられ、やまあそさんにあきれられ・・・・。

何とか気を取り戻して、降りはじめました。降りていると、いきなり、ソマ道が現れました。
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そして、それをあるいて、毘沙門山のところへ降りてきました。
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私は「前に、95弟さんからこのあたりに磨崖仏があると聞いた(実際は、もうひとつ北の神明谷でした)」といったので、やまあそさんは、見たいなぁとそのあたりをきょろきょろと見られています。
でも、なさそうだったので、毘沙門山に登りました。

階段を登っていくと、祠発見か?と思いきや、蜂の小屋でした。もうすこし登っていくと、大きな建物がありました。
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ここは、毘沙門堂ではなく「不動さんのお堂」でした。名前を義光不動明王というそうです。右には観音さま、左は神変大菩薩(役行者の諡号)がおまつりされていました。

そこには、昔、一時的にこの義光不動さんが扁妙の滝のすぐ脇に祠を作って、そこにおまつりしてあったことが書いてありました。(この日も、オウネンと扁妙の滝にお不動さんがおまつりされていないか観察していたのです)一時的に、そこにあったのだと思うと、うれしくなりました。

そして、デポしていたTQF号でスタート地点にもどって、解散となりました。


こんどは、ぜひ神明谷を散策して、磨崖仏をみて、笠形山と中心とする山岳信仰の名残もみたいなぁと思います。
そういえば、祖父は、この神明谷でも、木・・・・でなく、石を運びだす仕事をしていたと聞いたことがあります。ここも祖父の軌跡をだどる旅になりそうです。
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by deity_river | 2011-09-17 20:00 | しゅみ

くら筆部2

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今回は「いろはにほへと ちりぬるを」まで書きました。

筆で書いていると、「漢字」から「かな」への変化をとても意識します。
漢字にすると「以呂波仁保部止 知利如留遠」です。

鉛筆で、ひらがなをならっていたときは、発音がこの文字というふうに「ただ形を覚える作業」だったように思うのですが(もう幼稚園のはなしやから忘れた)、筆では元々の漢字をイメージしながら書きました。
平安時代の女房たちがかなをつくった気持ちがなんとなーくわかるような気がします。

鉛筆でかくと「は」と「ほ」は、1画多いか、少ないかの違いですが、「は」は「波」。「ほ」は「保」からできているので、1画目の力の入れ方(さんずいとにんべんのちがい)と、最後にくるりと回るところが全然違うことに気がつきました。

この調子で、なんとか、「ん」までがんばろうとおもいます。


さいごに、名前を入れるときに「み」を失敗しそうになりました・・・笑
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by deity_river | 2011-09-16 22:08

 私が、但馬妙見に興味をもったのは「花まつり」について、調べているときでした。
作畑では、この日に「てんと花」と掲げる習慣があるのですが、峠を越えて隣の但馬地方でも同じような習慣があると『但馬の年中行事』という本に書いてありました。また、その日には、「但馬各地方から、八鹿の但馬妙見の名草神社に参りに行く」とも書いてあります。
私の中では、「但馬地方のみんながこぞって、『妙見参り』するの?なんかおもしろそうやなぁ」と思い始めたのがきっかけです。
母方の祖母に聞いたら、祖母の父、つまり私から見ると曽祖父の時代までは、「名草神社にお参りに行って、妙見杉の神さまの依代にしていただく習慣があった」そうです。

祖母には、私が、但馬妙見さんのこと聞いてきたことがとっても印象的だったようで、こんな本を贈ってくれました。
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(このほかにも、八鹿の『高柳のおりゅう柳物語』と城崎の『鼻かけ地蔵物語』が同封)

その少し前、伯父さんから但馬の民話の本をたくさん頂いたのですが、その中に、八鹿公民館が主催された「妙見参り」のフィールドワークの資料も入ってました。
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(本当は参加したかったのですが、どうしても都合がつかずになくなく、資料だけを頂いたのです)
そこには、祖母の言っていた「妙見参り」のルートについても書かれています。
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(たくさんある「妙見参り」のルート)

それに、先日、大江山のふもとの毛原に集落に行ったことを祖父に報告したときに、「あんな太い木はめったとないけど、但馬の妙見さんにいたら、ようさんあるで。あそこはごっつい木がある」といっていました。それに、「尋常高等小学校をでたあとは、わしは、八鹿の井上製材所に勤めとったんや。まだ戦時中やったからな。そのときな、八鹿の九鹿の青年学校に通とったんや。ほんときに、妙見の名草神社まで、腰弁当つりさげて遠足(トレーニング?)にいったことがある。」ともいっていました。

どうやら、この場所は、父方の祖父、母方の祖母にとっても、とても縁のある場所のようです。


 前置きが長くなりましたが、伯父さんから頂いた資料だけ見ても、なかなか地形も、地名さえも覚えきれず、わかっていない状態で、やまあそさんに「但馬妙見に行きたいんですけど~」とお願いしたら、あるコースを設定してくれたようです。
でも、それを聞いたTQFさんが、「それは、たしかに妙見山にはいけるけど、おそらく名草神社にいけへんコースやでー」と突っ込まれ、急遽、やまあそさんに名草神社を通るコースをお願いしました。
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(左下の妙見キャンプ場から右下の名草神社まで時計回りであるくコースです)



8月28日。
メンバーは、出石の大高山・権現山をご一緒したやまあそさんYSさんと、三久安山以来のTQFさんです。

集合は、名草神社の前ですが、早めに出たので、それまでに、伯父さんから頂いた「妙見参り」の資料のなかにある「妙見山案内マップ」を見ながら、行きました。
マップには「石原磨崖仏」があるので、それをみました。
でも、マップとは微妙に違うところで発見。
そこの看板には、周辺に他に2つ不動さんの磨崖仏もあるそうです
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(やまあそさん曰く、この看板以外にももう1つ地蔵の磨崖仏あるそうです)
ひとつは、祖母から頂いた「竜がつぼ」にあるそうです。(本当はここも行きたかったけど、違う方向なので無理でした。またの機会に)

そして、「村岡累層」に。
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ここでも、やまあそさんが、「これも、明らかに水辺の砂やなぁ。但馬が昔、水の中だったという証拠やなぁ」といわれていました。


 名草神社の手前のひろいところにYSさんとTQFさんと合流して、元・妙見キャンプ場からスタートです。
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(やまあそさんは、この妙見キャンプ場がオープンして間もないころ、一人で、テントを張って泊まったそうです)

そして林道を歩くと、階段の遊歩道が始まります。
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遊歩道を歩きはじめると、脇には、すごい杉の切り株だらけです。
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これらの木は、みんな、おそらく弾丸列車(詳細はのちほど)で運ばれたんでしょうね・・・。

遊歩道が急に斜度がきつくなりました。
私のペースはだんだん落ちて、3人からどんどん引き話されていきます。
TQFさんには、「一定の速度であるかへんからつかれるんや。とまったら、乳酸がでてきて、よけいにつかれるで」といわれましたが、夏バテで、普段から疲れやすいので、この日は、かなりしんどかったです。
いつも、飲み物はお茶しかもっていきませんが、今回は、自分の体調もわかっていたので、梅シロップをもってきていたので、それをちょこちょこ飲みながら体力回復。

杉の林を抜けて、ブナの森に入って、右手を見るとゴール地点の名草神社の本殿?の屋根が見えました。
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(大きなブナの木)

わたしが、だらだらあるくものだから、途中で、ご夫妻に追い抜かされました。

そして、大ナルへ。
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(霧がかかって、幻想的な風景です)

ゆるゆると緩やかな斜面を登っていると山頂へ着きました。
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YSさんは、さっそく、三角点を探されています。
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(ありましたー!四等三角点「妙見山」)

そして、昼食を食べました。

やまあそさん(IXW)は、無線をされています。
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氷ノ山のたぬきさん(IRC)と千ヶ峰のたらちゃん(WCY)と、植松山のメ~さん(OAP)とお話されていました。

みんな、こんなに遠く離れていても、お話ができていいなぁとおもいつつ、私は、迷惑にも、その無線されている横で、大きな音で、ピーピーとアンデスをやけになって(?)吹いていました。
もちろん、恒例のやまあそさんとの合奏もしましたが、わたしが、ヘタすぎて・・・・・・。(前日に猛練習したんですけどね~!)
前からあわせている「いつくしみ深き」は、どうやら、YSさんのお気に入りの曲だったようで、とても喜んでくださいました(山頂から降りている途中にもYSさんのこの歌の鼻歌が聞こえてきました)

そんなこんなで、山頂で遊んでいるときに、単独の女性が登ってこられました。そして、「やまあそさんですか?」と声をかけられました。どうやら、以前お二人は、山でお会いされてそうです。お互いに、こんなとこ、登る人おるんかなぁと思うところでであったそうです。お名前は、PORECOさんです。
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しばらくお話をして、私たちは、一足先に、山頂を去りました。
そして、名草神社へ向かいます。八鹿と村岡の境界尾根を下っていくと、突然、左手に林道が見えてきました。これは、蘇武岳へとつながっているです。
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林道は暑そうなので、私たちは、尾根を歩きました。
その途中、TQFさんが「あ!タオルがない!」と叫ばれました。
どうやら、妙見山頂に忘れたよう・・・・・。大切なタオルだったようで引き返されましたが、すぐに戻ってこられました。
PORECOさんが、山頂に置き忘れていたのを後ろからデリバリーしてくだっさたのです。

それから、5人で歩きました。
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尾根をあるくと、妙見峠(作山越)にでました。
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ここには、丁石があります。
『但馬の年中行事』には、このあたりには「虚空蔵菩薩のお堂があって、冷たい湧き水があり、妙見参りの日には、ウドン・トコロテンなどを売る店でにぎわった」そうです。
母方の祖父は村岡の神坂生まれです。村岡の人たちは、この作山越で、妙見参りをしていたと書いてあったので、祖父の父ももしかしたら、この峠を越えて、妙見参りをしていたのかもしれませんね。

妙見峠からは、丁石が続いているし、明確な道があります。

私たちは丁石を観察しながら、歩いていきました。
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そして、名草神社へ。
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名草神社は、五穀豊穣をつかさどる名草彦大神を中心に7柱の神様がお祀りされているそうです。

門の左手の建物の天井が黒く焦げています。これは、護摩焚きをしていた跡だそうです。
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そして、お参り。
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下の三重の塔を見ました。
その屋根の三層目の軒の下の四隅にはお猿さんの彫刻があります。
名草神社のパンフレットには「世の人は見ざる、言わざる、聞かざるというけれど、思わざるをたもてば、三の猿はたやすいことだ」ということです。
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(思わざる)


でも、神社の中に、三重塔??
本殿の前には、護摩焚きの跡もありました。

明治時代までは、この名草神社は帝釈寺日光院というお寺だったそうです。神仏分離、廃仏毀釈のために、帝釈寺日光院の建物が名草神社になり、日光院自体は山をもすこし降りたところに、移動したそうです。

また、この三重の塔は元々は出雲大社にあったものですが、江戸時代に出雲大社本殿の御用材として、御神木とよばれた妙見杉の巨木を提供したお礼に譲り受けたそうです。島根の宇龍港を船出して、豊岡の津居山港につき、妙見山まで運ばれたのだそう。

でも、何で神社である出雲大社に三重塔?
昔は、出雲大社も神仏習合だったそうですが、ここは、江戸時代の寛文年間に神仏分離が行われて、三重塔が必要ではなくなったそうです。


そして、大きな杉の木と記念撮影。
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祖父が言っていた「ごっつい杉」って、きっとこれのことでしょう・・・。

PORECOさんは「いつも山歩きをするけど、神社とかはあんまり見ないから、いろいろろ勉強になるわー」といわれていました。(わたしも、いつも勉強させて頂いています・・・)


名草神社から降りてくると、妙見集落の跡がありました。
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(妙見集落の人たちは、妙見さんのお札を売って生活をしていたそうです)

そして、ここで、TQFさんとはおわかれ。


わたしと、やまあそさん、YSさん、PORECOさんは、日光院へ見学へいきました。
日光院には宝物館(お寺の下の無料の建物)があります。
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中には、化石とか、
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鉱石とか、
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妙見集落で売っていたお札の版木もありました。
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(真ん中の版木をよくみると、「狼」が描かれています。どうやら、妙見菩薩と狼は関係があるそうです。)

そして、境内へ。
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境内を散策して、ちりぢりに解散しました。


 そういえば、日光院に降りてくるまで(名草神社から石原に降りてくる途中)には木馬道がいくつかありました。
妙見山で切られた杉は弾丸列車で八鹿駅まで下ろされたそうです。

日光院のHPによると、元々、妙見山は帝釈寺日光院のものでしたが、明治政府によって、強制的に取り上げられてしまったそうです。でも、それがおかしいということになり、明治政府が山が返還したのは、名草神社(日光院は石原へ降りてきていた)だったそうです。でも、日光院が裁判をして、山を戻してもらったそうです。
その後、日光院が、妙見山からの木をおろすのに、小佐谷を走る弾丸列車を作ったそうです。(詳しく知りたい方は、「但馬妙見 日光院」のページへどうぞ)
その弾丸列車の動力は、木の重さと山の斜度からできる力だけだったので、とても、技術のいる仕事だったとのこと。そのため、仕事中になくなる方も、多数いらっしゃったそうです。その供養とも近くにある、とやまあそさん。


次は、弾丸列車の軌道をたどるのも面白そうです。
また、お願いしますね。やまあそさん。

また、『龍がつぼ』のあとがきには、このように書かれています。

(前略) 昔話は、親から子へ、そして、孫へと語りつながれて来ました、時代と共に少しずつ忘れ去られ、現在では、妙見信仰の歴史までもが、正しく伝わっていない状態に心を痛めていました。
 「昔話」はその土地の文化であり、宝物でもあります。その宝物を通じて、なんとか子どもたちにふるさとの文化や歴史に興味を抱いてもらい、(中略)ひとろでも多くの人々にふるさとの宝物を再発見していただき、大切に伝えていただきたいと思います。
 但馬には、まだ知られていない昔話や、忘れ去られようとしている伝説がたくさんあります。これらの宝物を残すことが波紋のように広がっていけば、とても素晴らしい事だと思います。


 私も、そう思います。
きっかけは、本で読んだ「妙見参り」でしたが、妙見山、名草神社、日光院を実際に、自分の足を運び、目で見たことで、そこからわかったこともたくさんあります。
そして、日光院の和尚さんはまだお会いしたことはありませんが、とても熱い思いを秘めている方だということが、今回のレポートを書くにあたって、いろいろ調べている中で、よくわかりました。
とにかく、ここは、まだまだ見所がたくさんあるので、徐々にみていきたいなぁと思います。
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by deity_river | 2011-09-01 23:12 | しゅみ

くら筆部

 8月6,7日の辻の広場まつり・手づくりテントのために、すっぴん館にて、ミツマタの紙漉き作業中、こんな話になりました。

「この紙をつくるだけでなくて、何か作品としてアレンジしたいね」
その思いと、私のかねてから「書道を習いたい」という願いが、合わさって、
わたしは、すっぴん子師匠の元へ、弟子入りしました。

小学生のころは、習字も習っていましたが、筆をもつ機会がなくなり、だんだんとペンや鉛筆でさえ持たなくても文字がかけるという生活になってしました。

そこで、わたしの前々からの憧れであった、「かな」を中心に練習することになりました。


筆を持つのが15年ぶりぐらい。

とりあえずと墨をつけて、書いた文字は、すっぴん子さんに「鉛筆書きやな」といわれ、筆の運びから練習しました。

たくさんたくさん書いて、なんとか、らしくかけました。

一日目の今日は、私の名前をなんとからしく、書けるところで、終了。
すっぴん子さんには「自分の名前なんやから、堂々と書いたらええやん~」と心強いお言葉を頂き、筆を運びました。

名はうまくかけましたが、姓が微妙です。
バランスをとるってむずかしい・・・。

ゆくゆくは、和歌や手紙を書くことが目標です。


本日の成果。
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by deity_river | 2011-09-01 22:43 | しゅみ

地元の暮らしの様子や日々思ったことを更新中。なくしたくないものがたくさんあるから。