日参

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このあたりには地区ごとに神社があり、特に大歳神社が多いみたいです。大歳神社が多いのはきっとなにか地域ごとの信仰の違いがあると思うのですが、いずれにしても(神社の名前が違っても)『日参』と言うのがあります。
これは毎日誰かがお参りするように、旗がまわってきます。しかし、家へまたは親戚に不幸があったら飛ばされて次の家に回されます。
 明日は私の祖父母の家が「日参」の当番です。
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# by deity_river | 2007-08-17 06:49 | ぎょうじ | Comments(0)

お盆

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祖父母は季節の行事を大事にする方で、特にその中でもお盆は最重要な行事です。今年は私も迎え火を焚くのを見学させてもらいました。

 『迎え火』というのは盆にご先祖様が家にかえられる際の目印にするためにたくそうです。家の仏壇につながる庭の角に、おがらと杉の葉をワラで束ねたものを竹に挿して火を点けました。それに火を焚くことでご先祖様は迷わず墓から家に帰ってきます。
祖母から少し聞いたのですが、父が幼い頃は『迎え火』を焚くことはもちろんしていたのですが、わざわざ墓へ行き、おんぶするかっこうで家にまで帰ってきたそうです。これはご先祖様を墓から家へおんぶして連れて帰るということらしいです。
 
 翌日の15日はお供え物を川に流して、その後、お寺へ参ります。その際、今はお金を渡すそうですが、祖母は昔の様式に従って「うちまき」とよばれる生米に賽の目にきった茄子を混ぜたものももって行きました。神様の行事は「生米のみ」。仏様の行事は「生米と茄子」だそうです。
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# by deity_river | 2007-08-15 23:39 | ぎょうじ | Comments(0)

土用のはらわた餅

 毎年7月17、18日には作畑地域にある「観音さん」で「観音まつり」が行われます。
 作畑の地域ではその観音祭りの日(17日)の晩に「土用のはらわた餅」を食べる習慣があります。
はらわた餅とはふつうの餡衣餅(あんころ餅)。これは牡丹の咲く時期に作ると「ぼたもち」、萩の咲く時期に作ると「おはぎ」、土用のころに作ると「はらわた餅」(一般的には「土用餅」とよばれる)というように、見た目姿は同じでも名前が変化していきます。

 「土用餅」とは、夏の土用(どよう:立秋の前の18日間)が最も暑い時期といわれ、暑い夏を乗り切るために、精のつくものを食べる習慣があります。丑の日といえば鰻ですが、土用の入りに<土用餅>と呼ばれる餅を食べる習慣も、室町時代からあるそうです。
 
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# by deity_river | 2007-07-14 23:58 | しょくじ | Comments(0)

お観音さま

作畑地域には古くからこんな唄が伝わっています。
「作畑に、すぎたるものが三つある。
大井(おおゆ)、かんのん、重左(じゅうざ)がかぁ。」
 この三つのうち、大井は、元第二小学校(現在の地域交流センター)の下のいせきのことで、大井がかり五町といって村で一番の上質の田と面積を養ういせきです。このいせきを作るのに昔の方がたいへん苦労されたお話も残っています。
 重左がかぁというのは重左衛門と言うひとの奥さんが、とても美しい人だったからとか、なかなかよくできた人だったからとも言われておりますが、一説に、ほんとうは「重左がかぁ」ではなくて「十代がかり」だということです。昔は長男のことを、かかり子、かかり、と呼んでいました。それで作畑に十代続いた長男相続の名家があるということをうたったものだととのことです。
 「作畑の観音さん」と土地の人々に親しまれている観音堂は、昔から現在の地域交流センターのところにおまつりしてあったのですが、約70年前に、今の場所へ移されました。

 御本尊は十一面観音立像と聖観音立像の二体です。この御本尊には次のような伝説があります。

 昔、大畑(作畑のひとつ南の地域)の大畑に観音堂があったそうですが、火事にあい焼けてしまいました。幸いにも本尊を取り出すことができたのですがおまつりするところがありません。それで大畑の人は一時作畑の観音堂にあすかってもらうことになりました。それから長く生活に苦しい時代が続きましたのでなかなかお堂を再建することができませんでした。幾世代か過ぎてから、云い伝えがあるからと作畑へ本尊を返してくれるように申し出ました。だが、作畑は「あずかったことはない」と言って返してくれず、しまいにはけんかになったそうです。それから観音さんのおまつりには大畑の人達がおまいりをされてよくけんかをされたとか。どちらが本当か、真実を知っておられるのは、御本尊だけでしょう。
 観音まつりは毎年七月十七、八日に行われ、この時だけ御本尊が御開帳されます。村の人は誰でも観音さまにおまいりすると、お母さんのふところにはいったような気がすると言います。私達はこんなお観音さんをおまつりしてくださった祖先に対して感謝しなくてはなりません。
                  足立誠太郎「ふるさとの民話史話」より


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# by deity_river | 2007-07-14 23:42 | ぎょうじ | Comments(0)

集落の概要

 私の祖父母の住む集落は兵庫県の中心の山の中。ちょうど中国山地のてっぺんです。兵庫っていったら神戸とか城崎とかのイメージが強いとおもうけど、ちょうどどちらに行くにも同じくらい。中国山地のちょうど東端あたりに位置するので、もちろん高い山に囲まれています。その山々を見渡すと、杉、杉、杉。どこもかしこも杉の木。私は生まれた時からこんな風景だったから当たり前だと思っていたけど、ヨソモノの目で見てみてみるとこの景色が異様です。そんな杉の山と山の間を縫うように大きな川が流れています。その川にそって家々が並んでいます。この川は途中で市川と合流して姫路から瀬戸内海へと流れていきます。

 このあたりは昔でいう播磨と丹波と但馬の国とちょうど境のあたりでした。そして、天領(幕府の直轄地)でした。というのも、ちょうど集落の北西にある白口峠という道を越えると生野銀山があったのです。(銀山との関係については後ほ詳しく書きます)幕府は銀山を中心にその周辺の土地をも直轄地にして、複雑な地形にすることで人の出入りをしにくくしたそうです。このあたりの集落は同じ流域のシモ(南)の地域より、物流などでは山一つ越えた地域のほうがはるかに結びつきが強かったそうです。もしかすると、方言がきついといわれるのはそういう歴史があるからかもしれません。
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# by deity_river | 2007-06-13 22:20 | どんなとこ? | Comments(6)

地元の暮らしの様子や日々思ったことを更新中。なくしたくないものがたくさんあるから。