『地蔵尊 頭のくぼみに 冬帽子』 てるこ


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 おばあちゃん家の道向かいの六体地蔵さんはいつもきれいな花が供えられ、かわいらしい前掛けをしています。
そして、いつ見ても左からふたつめのお地蔵さんだけ帽子をかぶっています。

おばあちゃんになぜ帽子をかぶってあるのかを問うと、「わしが被せた」とのこと。
帽子を被っているお地蔵さんだけ頭(背中の舟形ところ)が欠けていて、帽子を被って一人前になるらしいです。
おばあちゃんは夏になると夏用の帽子(伯母さんや従姉妹が赤ちゃんの時に被っていたもの)を被せ、冬になるとニット帽を被せています。

おばあちゃんはいつも新しい花をお供えできるようにお堂の横にお花も植えています。
秋なので、畑で採れたおもちゃかぼちゃもお供えしています。

そんなお地蔵さんのことをおばあちゃんは俳句に読みました。
おばあちゃんのお地蔵さんのことをいつも気にかけている気持ちが伝わってきました。

ちなみに、お堂を作ったときに六体地蔵さんの中に、近くにあった違うお地蔵さんも一緒に祀られたので、六体以上おられます。
ここは作畑ではなくて、出石街道の途中です。でも、作畑のおばあちゃんも負けず劣らず神仏への信仰心があついです。
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by deity_river | 2014-11-04 22:47 | ふうけい | Comments(2)

今年のGWに祖母の実家のすぐ近くにある建屋山に登った後に、ふたいとこのゆうすけくんが私たちの曽祖父が撮した写真を送ってくれました。(後で祖母に確認したら、曽祖父が写っているので、誰が撮ったかは不明)
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お彼岸を兼ねて、祖母のおうちにいったときに、その写真を見せると、いきなり、「一番手前におんなるのんが、父さんだわぁ」といいました。
こんなに小さい人やのに何でわかったん?と聞くと、「頭に手ぬぐいでハチマキにしとんなるから」といいました。

そして、「これ、うちの牛やわ」といいました。これもなんでわかったん?と聞くと、「お父さんが牛の手綱ひいとんなる」といいました。
私には手綱が細すぎて、見えませんでした。

そして、その曽祖父の奥に学生服きて石垣にもてれている男の子を指して、「あら、これは、兄さんやわぁ」といいました。
これも、「兄さんやからわかる」といいました。(兄さんはふたいとこのおじいさんです)


そして、じっくり眺めた後に、牛の思い出を話してくれました。

「牛の世話はなぁ、わっしら、こんども(子ども)の役でなぁあー、朝、ウチの牛を引いて、この放牧場までのなんがーい坂(「のぼりたて」というそう)をつれてあがってな。だから、船谷の牛はおいしいって、(養父)市場でも、良かったんじゃぁ。元気もんの牛は山越えて、隣の畑(地区)まで行きよったなぁあ。夕方に牛を連れていによったけんど、牛はお腹がすいたら、柵によう体当たりしてきよったんや。この放牧場の下が草刈場で、わっしらーも草刈ってきたな。こどもながらに、よう働いた。うちらぁ子どもがよう働いたから、親も少しは楽やったかもなぁ。ほいで、うちのお父さんは、牛の生産の役をしとってなぁ。市場に行くときには先頭切って牛連れて船谷から市場まで歩きよったんやで。牛だけやのうで、人の世話も好きやったんやで。」

と、教えてくれました。


それから、右下にある、2つの四角いものは「きぐま」という、いわゆる薪だと教えてくれました。
左側が祖母の家の薪だと教えてくれました。大きいのはお風呂用だったそうです。



祖母は、もう、ここで、放牧されていないから、草ぼうぼうだろうといっていましたが、私が「草ぼうぼうどころか、ここは、みんな植林されていて、放牧されていたようにみえへん。名残は大日如来さんだけやで」と教えてあげたら、びっくりしていました。


祖母は、今はなき、自分の父親や牛との思い出を、古写真を見ながら思い出していました。
そして、プレゼントしました。(建屋山歩きの写真とともに)
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by deity_river | 2012-09-27 22:28 | ふうけい | Comments(2)

建屋山へ(the othor story)

 兵庫県の二等三角点を目指して歩かれているYS11さんが未踏のひとつに建屋山があるという。実は、この山の麓の建屋谷地域には私の母方の親類がたくさんいらっしゃるのです。とくに、船谷集落には母方の祖母の実家があり、私にとってはとても身近に感じるところです。なにかおもしろいことが発見できるかもと思い、ついていくことにしました。

 しかも、最近、船谷に行く機会がちょこちょことあり、祖母のお兄さんに山の話をうががうと、「船谷のケサカの谷の奥に『寺ヶ平(てらがなる)』というところがあり、そこはかつては船谷の大仙寺の寺跡だった。」聞きました。
他にも、いろいろ聞きましたが、まずは寺跡が気になります。これは、行って、目で確かめてみたいといけません。


 4月29日。

メンバーはやまあそさん、YSさん、TQFさん、そして船谷のふたいとこ「ゆうすけ君」、そして、私こと作畑ガールです。(あ、ちなみに、ゆうすけくんとは「ふたいとこ」になるのですが、ゆうすけくんの母方の祖父と私の母方の祖母、そして、ゆうすけくんの母方の祖母と私の母方の祖父が本当のきょうだいです。ややこしい・・・。いろんな意味で、とても似ていると思います。)


まずは、下山地点にある船谷の日枝神社に集合です。
ゆうすけくんと(一緒にやってきたおいさん)をみんなに紹介しました。
TQFさんは、遅れるとのことで、出発地点となる古代村で、出会いました。

古代村の巨大な奇石を見ながら、尾根を目指します。
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この日はとても暑く、登り始めてまもなく、汗が出てきます。
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TQFさんは半そででくるんやったと重ね着を脱がれています。

ようやく、オオカミ岩にやってきました。
ゆうすけ君は「むかし、この上にお社があった」といい(自然学校のときにこの巨大な奇石めぐりをしたそう)、みんなで見上げていると、上にはTQFさん!!
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(金比羅さんのお社はなくなっていました)
その上から西を見ると、眺めがよいです。
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いろんな岩を見ながら歩いていくと、途中に梯子が・・・。
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わたしはこわくてへっぴり腰になって、なんとか登ります。

そののぼりきったところから西を見ると、真正面にスリガ峰(大杉山)が、その北に、1年前に御井神社と産霊神社の跡地を求めて歩いた御祓山やカカナベ峠が見えました。
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大テング岩までくると、そこからいよいよ本格的な山歩きになります。
尾根道で建屋山を目指しますが、尾根はやぶになっていたので、少しまいて、鹿の歩いた道を歩きます。

このあたりから、私は遅れだします。

やまあそさんは「山頂手前100mが激のぼりだから、この中の誰かが死ぬかもしれん」といっています。
みんなは、着実に激のぼりを登っていきますが、私はゆっくりな上にちょっと小休止。声をかけられても、返事する元気があまりない・・・。
岩の上に足を掛けると、このあたりのはもろいらしく、何度か崩れました。

そして、みんなからだいぶん遅れを取りながらも、なんとか二等三角点・建屋山につきました。
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このあたりから、能座と餅耕地の谷がよく見えました。

ここでお昼になったのですが、三角点の周りは木が刈りはらわれていて日陰がなく、ちょっと下がったところの杉の木の下で食べました。

下りは三角点から北の尾根を歩き、船谷を目指します。
下りのほうは、登りほどつらいという感じではなかったです。


暫く歩くと、その麓には船谷集落がみえました。遠くに但馬妙見や山頂の白い氷ノ山も見えました。


このあたりからたくさん植林されています。船谷のおいさんも植林したし、下刈りにこのあたりにこられたそうです。(このあたりの山を知っているからこそ、船谷の山は「さがい」(急)から危ないと、何度も言われました・・・)


そして、平坦地にある「毛坂」の四等三角点につきました。
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(やまあそさんは「地図では毛坂」になっているけど、これは、船谷集落と隣の畑集落との境界にある谷だから「境坂」が「ケサカ」になったのかもしれない)といわれています)


三角点からは尾根を歩いて、ケサカの谷を目指します。
その途中、斜面にへんな平坦地があり、やまあそさんが「怪しい、寺跡かも」といわれています。私はそんなに気に留めずに下っていったのですが・・・・。
その平坦地あたりで、ヤマシャクヤクのつぼみ発見。
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そして、その平坦地を下ると、急に巨大な岩が現れました。
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ゆうすけ君は、「これは、なにか怪しい岩やな。」とつぶやいています。

大仙寺のご住職がかかれた文章にこのようなものがあります。
船谷のてらの前をまっすぐに行き、山の中に入った道を約五キロメートル入った奥山の字ケサカの山中に無数の大岩があった。これが後に山号(岩蔵)の元になったようである。(中略)この岩の上側に平坦地があり、そこに地蔵院、壽量光院、與光寺の大寺と大仙庵の小寺があったので、ここを寺が平という。(中略)狩猟中心の生活から米作りが急速に広がり、人も寺も山を降りて平地に定住していくようになり、大仙庵もヒナタに降りてくることとなる。白鳳時代の大化年間と推察できる。しかし、ここはナナメ筋(神様の通る道)にあたっており、寺屋敷としてはよくないとの理由で、後に文政年間に現在の袖谷に移転した。地蔵院は地蔵院観音堂がその移転先と思われる。與光寺は池上の山上に移転し、後に延久元年に現在の地に下りる。

また、この岩にはこんな言い伝えもあります。
この岩の中に大蛇が住んでおり、これが抜け出るといった。船谷の人は抜けて出られると困るのでその穴の付近に梨の木の杭を打ち込んだ、このため大蛇は船谷のほうへ出られずに畑村の方へ抜け出たということだ。この出た所を蛇抜け谷といい今もあると聞く。船谷の人が杭を打ち込んだため、この部落には梨がみのらないという話もある。

この文章をちゃんと覚えていれば、この平坦地は寺跡だということがわかります。
このときの私は寺跡かな?とおもいつつ、遅れ気味だったので、いそいで降りていきました。


そこから下っていくと、激下りになります。そこにはロープが張ってあり、歩きやすい??
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下っていくと、平坦地が見えて、みんな「ここも怪しい、寺跡??」といっています。
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平坦地には桜が植わっていて、それらを取り囲むように鉄パイプの柵がめぐらされています。その周りの山の斜面に段々があります。
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前に船谷のおいさんから「ここは、畑地区のの桑畑やったよ」と聞いたことがあります。この段々畑の名残は桑畑でしょう。
また、船谷側は牛の放牧場で、牛が山を登って、畑のほうへ降りて、牛がたんぼの稲をたべて大変だったこともある」と聞いたことがあります。


そこから、峠へ降りて、船谷を目指します。
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最初はうっすらと踏み跡がありますが、だんだんなくなり完全に消滅。しかも急斜面になり、私は悪戦苦闘。弱音を吐きつつもなんとか降りていたのですが、途中で私の足に山ビルが・・・!みんなはのんきに私にくっついたヒルの写真を撮っていますが・・・。

なくなった道も途中から見つかり、何とか無事に船谷集落に着きました。


山から下りてくると、村へ降りる林道がありました。その脇のウト谷には、滝があります。
TQFさんがその滝に寄って、掃除をすると、滝つぼのところがお風呂のようになっています。
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おいさんからこのあたりは、牛の放牧場だったと聞いていたので、もしかしたら、牛の水飲み場かもしれません。ここに、大日如来の石碑があると聞いていたので、きょろきょろとしていたら、すぐ近くにありました。
文字塔です。
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(おいさんの話では、8月28日に、ここで餅まきをしていたそうです)


そして、袖谷の林道を降りて、集落へ降りてきました。

その途中、古くて大きなお堂がありました。
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その中を見てみると、阿弥陀三尊がお祀りされています。
おいさんの話では、四十九夜念仏といって、49日間を3ヶ月にまたがらすに2ヶ月間で終わるようにその間、3~5軒が組になって、お参りをするそうです。(同じような四十八夜念仏というのが、餅耕地でもありました)

お堂の脇には二体彫られた石仏もあります。

そして、日枝神社で解散しました。


 後日、やまあそさんから頂いた養父町史のコピーによると、この日枝神社ももとは、寺ヶ平の西にある足谷(町史には大谷とかいてある)の突き当たりから少し上がった場所にすこし平坦地があり、それを宮山というそうです。
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日枝神社では、「お当祭り」があります。これは宮山にあったときに生まれたであろうといわれています。
宮山に伸座されていた日枝神社は、洪水で流失して現在の地に留まり、摂社妙見宮は養父町稲津に流れ付き、その渕を「妙見渕」といい、ごく最近まで、「稲津のお祭りは船谷のお祭りと同日でなければならない」とされていたそうです。
 2、3年前に、祖母が『やぶの民話』にある「岩見重太郎のヒヒ退治」というところをよんだときに、この日枝神社の関係を少し話してくれました。これ以上書くと脱線してしまうので、またの機会としましょう。


船谷には、船着場といわれるところもあるし、とても興味の尽きない場所です。
そもそも、船谷の名前の由来は「但馬一円が泥海であって、交通は船に頼っていたころのある日、ご神船の一双が流出した。その船が見つかった場所を船谷と名づけたのが、宮屋敷の麓・船谷である。」といわれています。(松明を持ち、失った船を捜すお祭りが大屋町宮本の御井神社であり、「まいっそ祭り」といわれています。「まいっそ」=「もう一艘ない」と夜をこめて探したのが始まりだそうです。)


しばらくして、ゆうすけくんから大日如来のあったところの戦時中ころかと思われる写真が送られてきました。
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山の奥には、私たちが下りに使った道が明確に写っています。この時代に歩いていれば、私も難無く?歩けていたのでしょうか・・・・。
中央から少し右に見える、小屋は大日如来の石塔です。

この険しい船谷の山はなかなか優良な牛の産地だったそうです。
そして、牧草地の上はカヤ刈り場だったそうです。
また、おばちゃん(祖父の妹)からは「このあたりは、ぜんまいがよく採れて、とりに行ったもんです」と聞きました。

この写真を見せたら、ここで生まれ育った祖母はなつかしいというかもしれませんね。

ちなみにこの写真をとったのは、私たちの曽祖父・理之助さんです。
養父の市場に飾るために写真の中の人物も牛もカメラ目線だそうです。

船谷の放牧の風景とカヤ刈り場、そして、山菜取りの話を聞いて、作畑でいったら、千ヶ峰を思い出しました。
現在はハイカーと猟師ぐらいしか山へ行きませんが、かつて、石風呂の谷は同じように放牧され、カヤ刈りもされていました。そのことは作畑の祖父が時々思い出したように詳しく語ってくれます。祖母は千ヶ峰で山菜取りに夢中になり、迷子になったということもたまに話してくれます。

今は、地元の人は行かないようになってしまっている山も、かつては麓の村の人にとっては、なくてはならないもので、生活の一部であったことがとてもよくわかった山でした。

最近の私に忘れかけていたものを、いろいろと思い出させてくれた山歩きでした。
ありがとう、ゆうすけ君。
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by deity_river | 2012-05-03 20:41 | しゅみ | Comments(6)

出石へ

 母がどこか紅葉をみに連れて行ってほしいというので、3箇所ほど候補を考えていました。
一つ目は、氷上三山のひとつ円通寺。というのも、去年はそのひとつ、高源寺にいきました。
そしてもうひとつは、最上山。たまたま見ていた天気予報の紅葉情報にのっていたからです。
最後は、出石。これは、前から、私が出石という町が気になっていたからです。近いくせにいったころがないという・・・。

母の選択をまっていましたが、「どこでもいい」といいます。
でも、当日になって、「出石に行きたい」といいました。

前夜の私の「11月3日は大名行列がみれる祭りがあるらしい」という言葉が引っかかったようです。

 
 場所が決まれば出発です。

11月3日。

ナビは、八鹿経由のル―トをさしていましたが、私は、まえに、出石の大高山に行った帰りに、米地谷経由で帰ったら、すぐだったのを思い出して、そのルートで行きました。

母の実家の前を通り過ぎて(しかも、みっちゃん伯父さんとニアミス・・・)、出石街道をはしります。
「祖母はよく『この米地は出石の殿様の参勤交代の道やで』と教えてくれた」と母はいいます。

参勤交代に使われていた古い街道は山道ですが、今は、いい道が下にできたので、山道にあった丁石が新しい道に移動させられています。(奥米地のお坊さんがお祓いされました)

それを見ながら、峠にはいります。
峠までには丁石があります。
母も妹も丁石がめずらしいらしく、私が説明しながら、車を走らせます。
そして、峠には、お殿さまの籠を休ませたという「休み石」がありました。

峠から、下っていくと、すぐに出石の城下町に入りました。


まずは、出石そばを頂きました。
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そして、お城へ向かいます。

ちょうど、子どもの大名行列を見ることができました。
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お城へ登りました。
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のぼっている途中に、石仏と化粧地蔵発見。
石仏の上のコケの無いところには説明があります。
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(近くの小学校出身の人が京都の織物に携わっていて、寄進し、ようなことが書いてありました)

化粧地蔵。
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上から、出石の町並みを見下ろしたとき、母がつぶやきました。
「実は、30年ぐらい前のちょうど、今日、11月3日に、ここに来たんや。そのときも、大名行列をみたんや。」と。

そのときは、残念ながら、お友達ときたそうです。
まさか、30年後に、娘たちにつれてきてもらうとは、思わなかったでしょう・・・・。
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そして、大人の行列を見ました。
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母は、人を掻き分けて、必死でみていました。
でも、母はヤリの投げ受けのところは見れなかったようです・・・。

私は大名行列をみながら「ああいうかんじの籠が峠の休み石のうえにあったのかー」と思いながら見ていました。

紅葉には、ちょっと早かったですが、母の思い出の地をめぐった一日でした。
こんどは、もっとゆっくり、資料館やら、出石焼を見たいと思います。

帰りには、偶然にも、祖母の兄妹と出会いました。
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by deity_river | 2011-11-11 23:00 | しゅみ | Comments(3)

 「弾丸列車」という存在を知ったのは、先日の但馬妙見山歩きのとき。
明治時代に、日光院が、妙見山で育った杉の木を切り出し、八鹿駅まで運ぶために、小佐谷にそって、森林鉄道が走っていたそうです。その列車は、木の重さと傾斜のエネルギーだけ動き、弾丸のように早く駆け下っていたので「小佐谷の弾丸列車」といわれいていたそうです。(くわしくはこちらから)

 伯父さんから頂いた但馬妙見の資料に弾丸列車の軌道跡がありましたが、なんか、ちょっとおかしい(適当)です。
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やまあそさんも、手元に但馬妙見の弾丸列車の軌道跡の資料があると言われて、見せていただきましたが、わたしのと微妙に違います。
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(このあたりは正確そう)

というわけで、なるべく当時の弾丸列車軌道跡にそって、歩いてきました。

 9月25日。 
メンバーはやまあそさん、TQFさん、そして、はじめましての廃道とチャリが大好きK山さんです。

 八時半に八鹿の道の駅に集合して、まずは、日畑集落を目指します。
椿色(つばいろ)から、まっすぐいくと、名草神社ですが、今回は日畑へ行くので右折です。
日畑へ続く山と川に挟まれた細い道を行くと、道の脇で、「日畑谷 遭難者碑」という石仏がありました。これは、弾丸列車でなくなった方を弔う石碑だそう。
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そして、日畑集落へ入りました。ここは先ほどの細い道からは想像できないぐらい、土地が開けていて、おうちもたくさんあります。
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やまあそさんは、田んぼの作業をしているオイサンに「弾丸列車」のことを聞かれていますが、オイサンいわく「わしの親父とかの世代やから、わからん」とのこと。
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そして、日畑集落から加瀬尾集落を目指しました。
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(橋を渡る)
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加瀬尾集落へは、椿色からまっすぐに道路が出来ていますが、昔はこの道を使って生活をしていたようです。この道の脇には新旧の電柱があります。
峠道を歩いていくと、急に開けました。加瀬尾集落です。
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ここには、おじいちゃんがお一人お住まいだそうです。集落を歩いていると、そのおじいちゃんと犬に出会いました。おじいちゃんいわく「ここは冬になると2mも雪が積もる。妙見は4mや」と。
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(でも、犬がびっくりしてわんわんほえて会話にならず・・・)



加瀬尾集落の棚田跡を登って、弾丸列車の軌道跡の調査開始です。
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斜面を登っていると、道路に出ました。
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石原から名草神社への道路です。そこから参考資料の地図は大体の位置でしか軌道跡が書いていないので、地図と地形を見比べて歩きはじめると、最初に、昔の妙見参りの尾根道がありました。
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(妙見参道を歩いてみるわたし)

祖父からは、青年学校時代に「九鹿から椿色、石原の日光院の裏を登って、名草神社までは尾根道を歩いた」と聞いていました。まさに、その道です。祖父は、ほぼ70年前にこの道を歩いていたことになります。

その参道があるところの斜面を適当に下っていると、斜面に幅1,5mぐらいのなるい道のようなものを発見!!やまあそさんは「これが、弾丸列車の軌道跡や!」と興奮されています。斜面から軌道跡の途中に降りてきたので、さかのぼって、軌道の始まりを見に行きました。すると、さっきの、加瀬尾の棚田跡から登った道とぶつかりました。やまあそさんと、TQFさん、K山さんは「これは、棚田の一部かとおもって、見逃していた」と言われています。私は、つかれていて、もうすぐ、道路やということで頭がいっぱいで、全く見ていませんでした・・・。

そして、いよいよ弾丸列車の軌道跡をたどります。
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ここは、いくつかある弾丸列車の軌道の中の「桜谷支線」というそうです。ここからは、ずっとくだりです(下りでないと、進みませんもんね・・・)ちゃんと道が残っていて、へたれの私でも、ルンルン歩けます。
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(軌道跡に大木が・・・!木の成長ははやいんですね)


沢を渡る。
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まだまだ気持ちよい軌道跡は続きます。
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高度が下がってきたら水辺が近くなるので、軌道跡が崩れています・・・。
そして、南土場へつきました。
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谷なので、道が崩れかけています。ここから奥には、「妙見支線」があったようです。
川の対岸には、「大石谷(おいしがたに)支線」があったそうです。

そして、「いってこい(スイッチバック)」を歩きました。
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そして、今日の一番の難関?の川渡りです。
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TQFさんは、怖いという気持ちをあまり感じないのか、ひょいっとわたられています。
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わたしは、いつもどおり、ワーワー言いながら渡りました。(おしりからどぼんといかなくてよかった・・・)

TQFさんはそれよりも、この沢のお魚が気になる様子です。
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川を渡ったところには、資料には、ここには「妙見山神様(山の神さん)と一本杉」が書いてありますが、今はありません。


 すんなりと(?)軌道跡を歩けたので、次は、日高の観音寺地区からの妙見参道を歩きました。
今までゆるやかな下りだったのに、今度は登りなので、バテバテでなかなか進まなくて、TQFさんと、やまあそさんに押してもらいながら、歩きました。
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(つかれた背中)

しばらく歩くと、道標がありました。
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「右 おさたに   左 くわんおんじ こくぶんじ 道」です。
そこからもうちょっと、のぼると、休み堂がありました。ここで昼食です。
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そして、道標のところに戻ってきて、観音寺方面を目指します。
道標の裏には、石仏。
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続いて、磨崖仏があります。
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いい妙見参道が続いていますが、だんだんなんだか、怪しくなってきました。倒木ありの、道くずれありの・・・。
しばらく歩いていましたが、大きく崩れている場所に着きました。わたしがビビッているし、K山さんも普段は山歩きをしていないので、ちょっと怖かったらしく、やまあそさんとTQFさんが先に道があるか確認されました。待つこと約30分(?)。ここから先は、道が崩れているし、資料の妙見参りの道と違って、斜面をおおきく巻いているので、ここから先は厳しいとのこと。
あきらめて、引き返しました。
途中、行きに歩いてきた妙見参道ではなくて、尾根をあるきました。
そしてら、怪しい山小屋発見。
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そこから、ソマ道があったので、歩いていくと、妙見参道と合流して、川をわたっところへ戻ってきました。
これで、妙見参道歩きは終了です。

川沿いの日畑への道を歩いて、スタート地点となった日畑集落の中心へ戻ります。
その途中に石仏がありました。女性で、目を瞑っています。
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豊岡累層がありました。ここには、丸い石が多数見られます。御祓山でもみた「れき岩」です。
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そのここからジャワーのように水が降って来ていたので、やまあそさんは恒例(?)の水浴びをされていますが・・・。
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(暑いな~!)

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(どーん!)(やめてよー!)

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(あーつめたかった!)

そして、日畑集落へ帰って来ました。
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日畑にはこのような言い伝えがあります。
<日畑千軒>
 その昔、日畑には人家が千軒もあったという。妙見山の麓の谷間・日畑川の上流にどうして千軒も家があつまったのだろう。
 それは鎌倉時代(1185~1333)、源頼朝が征夷大将軍となって武家政治の基を固めようとしていた頃、日畑の山から質のよい鉱脈が見つかった、銀も多量に含まれていた。
当時の人々は、“石のみ”を持って、こつこつと鉱脈を探りながら掘っていった。
 今もその頃、掘ったという坑口が、日畑集落の上の方の山腹に雑草に覆われた口をのぞかせている。続々と金の採取には人が集まってきた。鉱石を砕いたという大きな石臼が今も旧家の庭に残っている。家数がどんどん増えて、採鉱の盛んなときには、千軒にも達したという。今も残る“精錬畑”や“鍛冶畑”という畑の俗称は、小規模ながらもその頃の人々の仕事場の名残であろう。坑道の深さは20メートルから30メートル位のもので。人間が腰をかがめてやっと通れるぐらいなものであるが、坑口は30位を数えるという。
 今、日畑集落が山の斜面の段々に建てられた家の集まりであるが、千軒もあったという頃は多くは加瀬尾側にあったと言われている。



まずは、みんなで日畑の三柱神社にお参りです。
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狛犬は加瀬尾の方の名前があります。
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加瀬尾という地区は日畑ととても関係があるのです。
 <加瀬尾のおいたち>
 妙見林道を登りつめて、村岡町に通じる分かれ道より妙見より谷川から遥か眼下を望むと、雄大な山肌を曲がりくねりながら上、中、下、三本の水平な溝筋が延々と果てし無く続きます。加瀬尾は日畑の先祖の人たちによって開拓されたといわれています。この村は高層地で、妙見の谷川の水を引かねば飲料水もありませんでした。 
 元禄14年(1701)日畑の庄兵衛さんが加瀬尾新田開発申請を願い出ております。それから5年後に人が住み着いたといわれておりますが、加瀬尾の人たちは生まれ育った日畑が恋しくて、加瀬尾から日畑にある我が家が見下ろせる場所に家を建て、朝夕手を振って合図しながら暮らしたということです。
 人々が生活するのに最も必要なのは水ですが、開発には多額の資金を必要とします。村人も、妙見との落差のほとんどない水路の構築も、人間の英知と労力を積み重ね積み重ねて、約16年の歳月を費やして村が出来たそうです。 
 最近では加瀬尾も例の過疎の波で約10軒に減ってしまい(※今は1軒)、家の周囲の田畑には杉が茂ってきましたが、先人たちの開拓えの辛苦を思うときへ感慨無量のものがあります。幸いに加瀬尾は平坦な土地であるために、旧八鹿町で一番広い田圃がこの村にあります。


みんなで神社にお参りしたのに、坑口探しになると、なぜか、おじさんたちお兄さんたちは、勝手気ままに行動。私は、どうしていいのかわからずに、ひとり、墓地でうろたえていました。

そうしていると、やまあそさんが、坑口を発見したと叫ばれたので、見に行きました。
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(ありましたー)

この坑口ではないかもしれませんが、三柱神社の近くにある坑口にはこんな言い伝えがあります。
<神さまのたたり>
 日畑の氏神は三柱神社です。この村が千軒もあったといわれる頃、金、銀の鉱脈を探しもとめて他国からもぞくぞくと人が集まってきました。
 たまたま三柱神社の近くで質のよい鉱脈が、多量にあることが見つかりました。大勢の人が奥へ奥へと掘り進んでいきました。20メートル、30メートルと掘って、ちょうど神社の真下あたりに進んだとき、細い坑内にたくさん灯していた火が、風もないのに一度にプッツリと消えてしまいました。真っ暗になった坑内では、人夫が頭痛に耐えられなくなって、一人減り、二人減ってとうとう発掘を中止してしまいました。
 これはきっと氏神さまの“たたり”だと人々は恐れをなして。それから後は誰一人としてその坑道へはいるものがありません。いまでも三柱神社の地底には沢山の金鉱が眠ったままだと伝えられています。 
 昔の人々は神のタタリだと考えたことと、現代人はどのように判断するでしょう。おそらく坑内に炭酸ガスかが充満したか、あるいは異常なガスが発生したかものと考えるでしょう。そだとすれば地下に眠る多量の金鉱も発掘の方法があるということになります。


わたしたちが、神社下の坑口を見ている間に、TQFさんは、墓地の裏の坑口を発見されたよう。

あれ?K山さんは??

TQFさんと合流できましたが、K山さんの姿がありません。
しばらくしてひょっこり現れました。K山さんは、ひとつも坑口をみていないといわれているので、やまあそさんが案内。

先に、TQFさんと車のところへ戻りました。その途中に、こんなの発見。
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そして、みんな合流して、解散しました。


 軌道跡には、特にレールもなく、ちょっとひろい道のようなもの以外は何も残っていませんが、かつてはレールがあって、妙見杉が運ばれてい当時の様子を想像することが出来ました。
妙見参りの道もしっかりと残っていたので(一部をのぞいて)、いかに多くの人が歩いていたかを想像することができます。


 昭和16、17年ごろ、八鹿駅前の井上製材で働いていた祖父は、その弾丸列車は見ていないそうですが、代わりに、バラスを運んでいるトロッコを見たそうです。ということは、昭和のはじめには、弾丸列車の軌道は木は運ばずに、石を運ぶ役目に変わったのかもしれませんね。

 今回もとっても楽しい時間でした。ありがとうございました。

ピンク太いマークが今回歩いた「桜谷支線」の軌道跡です。
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  追記。
 その後、やまあそさんが日畑集落を再訪されて、聞き取りをされたところ、今回歩いた「桜谷支線」は木馬道で、南土場には堰があって木を貯めておくところだったそうです。
妙見山から切り出された杉は木馬で山から下ろした後、南土場から始まる弾丸列車にのって、八鹿駅まで運ばれたそうです。
やまあそさんのレポートはこちらから。
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by deity_river | 2011-09-29 22:27 | しゅみ | Comments(0)

 私が、但馬妙見に興味をもったのは「花まつり」について、調べているときでした。
作畑では、この日に「てんと花」と掲げる習慣があるのですが、峠を越えて隣の但馬地方でも同じような習慣があると『但馬の年中行事』という本に書いてありました。また、その日には、「但馬各地方から、八鹿の但馬妙見の名草神社に参りに行く」とも書いてあります。
私の中では、「但馬地方のみんながこぞって、『妙見参り』するの?なんかおもしろそうやなぁ」と思い始めたのがきっかけです。
母方の祖母に聞いたら、祖母の父、つまり私から見ると曽祖父の時代までは、「名草神社にお参りに行って、妙見杉の神さまの依代にしていただく習慣があった」そうです。

祖母には、私が、但馬妙見さんのこと聞いてきたことがとっても印象的だったようで、こんな本を贈ってくれました。
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(このほかにも、八鹿の『高柳のおりゅう柳物語』と城崎の『鼻かけ地蔵物語』が同封)

その少し前、伯父さんから但馬の民話の本をたくさん頂いたのですが、その中に、八鹿公民館が主催された「妙見参り」のフィールドワークの資料も入ってました。
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(本当は参加したかったのですが、どうしても都合がつかずになくなく、資料だけを頂いたのです)
そこには、祖母の言っていた「妙見参り」のルートについても書かれています。
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(たくさんある「妙見参り」のルート)

それに、先日、大江山のふもとの毛原に集落に行ったことを祖父に報告したときに、「あんな太い木はめったとないけど、但馬の妙見さんにいたら、ようさんあるで。あそこはごっつい木がある」といっていました。それに、「尋常高等小学校をでたあとは、わしは、八鹿の井上製材所に勤めとったんや。まだ戦時中やったからな。そのときな、八鹿の九鹿の青年学校に通とったんや。ほんときに、妙見の名草神社まで、腰弁当つりさげて遠足(トレーニング?)にいったことがある。」ともいっていました。

どうやら、この場所は、父方の祖父、母方の祖母にとっても、とても縁のある場所のようです。


 前置きが長くなりましたが、伯父さんから頂いた資料だけ見ても、なかなか地形も、地名さえも覚えきれず、わかっていない状態で、やまあそさんに「但馬妙見に行きたいんですけど~」とお願いしたら、あるコースを設定してくれたようです。
でも、それを聞いたTQFさんが、「それは、たしかに妙見山にはいけるけど、おそらく名草神社にいけへんコースやでー」と突っ込まれ、急遽、やまあそさんに名草神社を通るコースをお願いしました。
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(左下の妙見キャンプ場から右下の名草神社まで時計回りであるくコースです)



8月28日。
メンバーは、出石の大高山・権現山をご一緒したやまあそさんYSさんと、三久安山以来のTQFさんです。

集合は、名草神社の前ですが、早めに出たので、それまでに、伯父さんから頂いた「妙見参り」の資料のなかにある「妙見山案内マップ」を見ながら、行きました。
マップには「石原磨崖仏」があるので、それをみました。
でも、マップとは微妙に違うところで発見。
そこの看板には、周辺に他に2つ不動さんの磨崖仏もあるそうです
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(やまあそさん曰く、この看板以外にももう1つ地蔵の磨崖仏あるそうです)
ひとつは、祖母から頂いた「竜がつぼ」にあるそうです。(本当はここも行きたかったけど、違う方向なので無理でした。またの機会に)

そして、「村岡累層」に。
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ここでも、やまあそさんが、「これも、明らかに水辺の砂やなぁ。但馬が昔、水の中だったという証拠やなぁ」といわれていました。


 名草神社の手前のひろいところにYSさんとTQFさんと合流して、元・妙見キャンプ場からスタートです。
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(やまあそさんは、この妙見キャンプ場がオープンして間もないころ、一人で、テントを張って泊まったそうです)

そして林道を歩くと、階段の遊歩道が始まります。
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遊歩道を歩きはじめると、脇には、すごい杉の切り株だらけです。
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これらの木は、みんな、おそらく弾丸列車(詳細はのちほど)で運ばれたんでしょうね・・・。

遊歩道が急に斜度がきつくなりました。
私のペースはだんだん落ちて、3人からどんどん引き話されていきます。
TQFさんには、「一定の速度であるかへんからつかれるんや。とまったら、乳酸がでてきて、よけいにつかれるで」といわれましたが、夏バテで、普段から疲れやすいので、この日は、かなりしんどかったです。
いつも、飲み物はお茶しかもっていきませんが、今回は、自分の体調もわかっていたので、梅シロップをもってきていたので、それをちょこちょこ飲みながら体力回復。

杉の林を抜けて、ブナの森に入って、右手を見るとゴール地点の名草神社の本殿?の屋根が見えました。
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(大きなブナの木)

わたしが、だらだらあるくものだから、途中で、ご夫妻に追い抜かされました。

そして、大ナルへ。
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(霧がかかって、幻想的な風景です)

ゆるゆると緩やかな斜面を登っていると山頂へ着きました。
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YSさんは、さっそく、三角点を探されています。
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(ありましたー!四等三角点「妙見山」)

そして、昼食を食べました。

やまあそさん(IXW)は、無線をされています。
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氷ノ山のたぬきさん(IRC)と千ヶ峰のたらちゃん(WCY)と、植松山のメ~さん(OAP)とお話されていました。

みんな、こんなに遠く離れていても、お話ができていいなぁとおもいつつ、私は、迷惑にも、その無線されている横で、大きな音で、ピーピーとアンデスをやけになって(?)吹いていました。
もちろん、恒例のやまあそさんとの合奏もしましたが、わたしが、ヘタすぎて・・・・・・。(前日に猛練習したんですけどね~!)
前からあわせている「いつくしみ深き」は、どうやら、YSさんのお気に入りの曲だったようで、とても喜んでくださいました(山頂から降りている途中にもYSさんのこの歌の鼻歌が聞こえてきました)

そんなこんなで、山頂で遊んでいるときに、単独の女性が登ってこられました。そして、「やまあそさんですか?」と声をかけられました。どうやら、以前お二人は、山でお会いされてそうです。お互いに、こんなとこ、登る人おるんかなぁと思うところでであったそうです。お名前は、PORECOさんです。
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しばらくお話をして、私たちは、一足先に、山頂を去りました。
そして、名草神社へ向かいます。八鹿と村岡の境界尾根を下っていくと、突然、左手に林道が見えてきました。これは、蘇武岳へとつながっているです。
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林道は暑そうなので、私たちは、尾根を歩きました。
その途中、TQFさんが「あ!タオルがない!」と叫ばれました。
どうやら、妙見山頂に忘れたよう・・・・・。大切なタオルだったようで引き返されましたが、すぐに戻ってこられました。
PORECOさんが、山頂に置き忘れていたのを後ろからデリバリーしてくだっさたのです。

それから、5人で歩きました。
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尾根をあるくと、妙見峠(作山越)にでました。
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ここには、丁石があります。
『但馬の年中行事』には、このあたりには「虚空蔵菩薩のお堂があって、冷たい湧き水があり、妙見参りの日には、ウドン・トコロテンなどを売る店でにぎわった」そうです。
母方の祖父は村岡の神坂生まれです。村岡の人たちは、この作山越で、妙見参りをしていたと書いてあったので、祖父の父ももしかしたら、この峠を越えて、妙見参りをしていたのかもしれませんね。

妙見峠からは、丁石が続いているし、明確な道があります。

私たちは丁石を観察しながら、歩いていきました。
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そして、名草神社へ。
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名草神社は、五穀豊穣をつかさどる名草彦大神を中心に7柱の神様がお祀りされているそうです。

門の左手の建物の天井が黒く焦げています。これは、護摩焚きをしていた跡だそうです。
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そして、お参り。
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下の三重の塔を見ました。
その屋根の三層目の軒の下の四隅にはお猿さんの彫刻があります。
名草神社のパンフレットには「世の人は見ざる、言わざる、聞かざるというけれど、思わざるをたもてば、三の猿はたやすいことだ」ということです。
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(思わざる)


でも、神社の中に、三重塔??
本殿の前には、護摩焚きの跡もありました。

明治時代までは、この名草神社は帝釈寺日光院というお寺だったそうです。神仏分離、廃仏毀釈のために、帝釈寺日光院の建物が名草神社になり、日光院自体は山をもすこし降りたところに、移動したそうです。

また、この三重の塔は元々は出雲大社にあったものですが、江戸時代に出雲大社本殿の御用材として、御神木とよばれた妙見杉の巨木を提供したお礼に譲り受けたそうです。島根の宇龍港を船出して、豊岡の津居山港につき、妙見山まで運ばれたのだそう。

でも、何で神社である出雲大社に三重塔?
昔は、出雲大社も神仏習合だったそうですが、ここは、江戸時代の寛文年間に神仏分離が行われて、三重塔が必要ではなくなったそうです。


そして、大きな杉の木と記念撮影。
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祖父が言っていた「ごっつい杉」って、きっとこれのことでしょう・・・。

PORECOさんは「いつも山歩きをするけど、神社とかはあんまり見ないから、いろいろろ勉強になるわー」といわれていました。(わたしも、いつも勉強させて頂いています・・・)


名草神社から降りてくると、妙見集落の跡がありました。
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(妙見集落の人たちは、妙見さんのお札を売って生活をしていたそうです)

そして、ここで、TQFさんとはおわかれ。


わたしと、やまあそさん、YSさん、PORECOさんは、日光院へ見学へいきました。
日光院には宝物館(お寺の下の無料の建物)があります。
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中には、化石とか、
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鉱石とか、
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妙見集落で売っていたお札の版木もありました。
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(真ん中の版木をよくみると、「狼」が描かれています。どうやら、妙見菩薩と狼は関係があるそうです。)

そして、境内へ。
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境内を散策して、ちりぢりに解散しました。


 そういえば、日光院に降りてくるまで(名草神社から石原に降りてくる途中)には木馬道がいくつかありました。
妙見山で切られた杉は弾丸列車で八鹿駅まで下ろされたそうです。

日光院のHPによると、元々、妙見山は帝釈寺日光院のものでしたが、明治政府によって、強制的に取り上げられてしまったそうです。でも、それがおかしいということになり、明治政府が山が返還したのは、名草神社(日光院は石原へ降りてきていた)だったそうです。でも、日光院が裁判をして、山を戻してもらったそうです。
その後、日光院が、妙見山からの木をおろすのに、小佐谷を走る弾丸列車を作ったそうです。(詳しく知りたい方は、「但馬妙見 日光院」のページへどうぞ)
その弾丸列車の動力は、木の重さと山の斜度からできる力だけだったので、とても、技術のいる仕事だったとのこと。そのため、仕事中になくなる方も、多数いらっしゃったそうです。その供養とも近くにある、とやまあそさん。


次は、弾丸列車の軌道をたどるのも面白そうです。
また、お願いしますね。やまあそさん。

また、『龍がつぼ』のあとがきには、このように書かれています。

(前略) 昔話は、親から子へ、そして、孫へと語りつながれて来ました、時代と共に少しずつ忘れ去られ、現在では、妙見信仰の歴史までもが、正しく伝わっていない状態に心を痛めていました。
 「昔話」はその土地の文化であり、宝物でもあります。その宝物を通じて、なんとか子どもたちにふるさとの文化や歴史に興味を抱いてもらい、(中略)ひとろでも多くの人々にふるさとの宝物を再発見していただき、大切に伝えていただきたいと思います。
 但馬には、まだ知られていない昔話や、忘れ去られようとしている伝説がたくさんあります。これらの宝物を残すことが波紋のように広がっていけば、とても素晴らしい事だと思います。


 私も、そう思います。
きっかけは、本で読んだ「妙見参り」でしたが、妙見山、名草神社、日光院を実際に、自分の足を運び、目で見たことで、そこからわかったこともたくさんあります。
そして、日光院の和尚さんはまだお会いしたことはありませんが、とても熱い思いを秘めている方だということが、今回のレポートを書くにあたって、いろいろ調べている中で、よくわかりました。
とにかく、ここは、まだまだ見所がたくさんあるので、徐々にみていきたいなぁと思います。
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by deity_river | 2011-09-01 23:12 | しゅみ | Comments(4)

文字制限で載せきれなかった前編(山歩き編)はこちらをご覧ください。

 御祓山を歩いたあと、いろいろ方から、お話を一日で聞きすぎて、頭がもやもや、それがだんだんもつれて混乱してきました。
でも、養父に伝わる民話の本を持っていることが頭の中に蘇ってきて、家に帰って、さっそく伯父さんに頂いた『やぶの民話』をひっぱりだしてきて、関係がありそうなところを読み返しました。
開いてみると、こんな民話が載っていました。


<馬のあしあと> 森地区に伝わるおはなし
 大屋町の奥宮本に、川の中に石があって、それに馬のひづめの跡がありよった。天馬があそこを
通ったんじゃとかかいう。
天王さんがだーっと馬に乗って、出られょうって、その石が邪魔ぁなって、馬がちょんと足を掛けたら、
馬の足跡がついたんじゃともいう。


<神社の取りあい> 森地区に伝わるおはなし
 三谷(養父町)のもんと宮本(大屋町)のもんと、天王さんにまいりよったんじゃけど、三谷のもんじゃ、宮本のもんじゃいうて喧嘩ぁしたらしい。
「そんなら、帰って、あしたの朝早う行った方が、お宮さん持って去(い)のう」いうこってやったら、三谷の者ぁ正直やったしけぇ、
「あした、帰って早う行こう」いうこって、たーっと戻ったんじゃそうなし、宮本の者ぁ手にあわなんだで、途中から引き返して、いって、引っくり返して持って去んじゃって。ほえで、いま宮本に天王さん祭っとるんじゃ。
三谷のもんが一杯食ったんじゃ。天王さんは御井神社ゆうとる。


岩井のお母さん達からは、「神さまは、牛に乗って下りてきんさった」と聞きましたが、峠をはさんで東側の森では牛の代わりに「馬」だったり、はたまた、ケンカしたとかいうお話だったりして、おもしろいなぁと思いました。

そして、セットでもらった『よもやまばなし』には、
<お走りさん> 森地区に伝わるおはなし
 4月15日、16日、養父神社から延々27キロ建屋斎神社にみこしが往復する奇祭をお走り祭りといって、町祭りとしてしられている。発祥は神功天皇が三韓征伐の帰路、養父神社に、“葛の葉餅”を献上せられその一部を斎神社に供えたという故事にまつらるお祭りであるが、このお走り祭りの道中の部落では、それぞれに接待の風習がみられる。
 昔、養父神社を出発したみこしは、三谷部落の奥を西向きに進みくしばの御祓山牛頭天王社に寄られたのちに、森分のタワ、サイキを越して、カカナベ作山明神より、谷口の荒神の森を通って、浅尾大明神に立ち寄られ、奥山口、建屋川越附近で小休止、社内神社氏子の歓迎を受け、建屋川沿いに斎神社に向かれたという(以下省略)


とあります。私はこれを見つけたときには、びっくり。
みこしのルートがあるではありませんか。これをみたら、また、このルートが気になりはじめました。

それに、宮本御井神社のまえで、草引きをしているお母さんからは、御井神社では1月14日に松明を燃やすお祭があると聞きました。(作畑では、この日は、「とんど」をして、「きつねがえり」という行事をするので、そういうものかなぁと思っていました)
いったいどんなお祭りなのかなぁと調べてみると、このことが『兵庫県の秘境』という本に書かれていました。

 大屋町宮本の御井神社は、牛頭天王を祭り、天王さんの名で知られている。この宮では、1月14日夜、鬼やらいに似た「まいっそ祭」がある。(中略)
 太鼓の音とともに式が始まり、面を着け、鉄鉢をつけた鬼神が現われる。鬼神は無言であるが、一同は「まぁいそ、まぁいそ」と叫びながら、鬼神を松明で叩く。その間に鬼神は、ゆっくり四股を踏みながら、左に進んで本殿に帰る。この時、誰かが「ホイあった」と叫ぶ。(中略)
 まいっそ祭りは、その昔、但馬一円が泥海であって交通は船に頼っていた頃のある日、ご神船の一双が流失したので、「もう一艘ない」を夜をこめてさがしたのに始まる。「ホイあった」は、船を発見した知らせ。その場所を船谷と名づけたのが、宮屋敷山の麓、養父町船谷である。


 但馬に関する本をいろいろ読んで、いろいろ分かったことも多かったですが、けど、逆に、興味が広がりすぎて、分からないことも増えてしまいました。
自分でも驚いたのは、「船谷」は祖母の生まれた地域なのですが、そこも関係しているとは・・・・。
なんだか、書き出したらきりがないので、一旦、このあたりで締めくくろうと思います。



 この日も、本当に奇跡のような出会いができてとても感謝しています。
そして、やまあそさんがいなかったら、私は神社跡を見つけることができなかったし、その前に、山頂までにもたどりつけていなかったと思います・・・。きっとロープ激のぼりで、立往生か、確実にストックを谷に落としていたでしょう!

 『やぶの民話』をはじめ、但馬に伝わる民話がおさめられている本は前々から読んではいたのですが、そのときは、「あぁ、こんなお話があるんかぁ・・・」と、ビックリはしたものの、たくさん伝わっている民話の一つとしか認識していませんでした。しかし、山歩き後にあらためて見返すと、しっかりと頭に刻むことができました。
民話は本当だったということが、自分の足で歩いて、目で確かめて、話を聞いて、分かりました。
でも、寄り道しすぎかも・・・・。
そのおかげで、いろんなことがわかり、繋がったのですから。とても、満足です。

でも、きっかけは「お走り祭りの神輿が登っていたという御井神社跡をみてみたい!」という、単純な気持ちだったのですが、いろいろ話が横に繋がっていて、こんなに奥が深いとは・・・・。それこそ、調べても、調べても、話が繋がっていくと思います。また、今度は違う物事から養父の民話や言い伝えをみていきたいなぁと思います。

そして、『よもやまばなし』を読み返しているときに、こんな言葉が目に入りました。

 車を乗りまわし、コーヒーの香を求めながら適当に金儲けをして、テレビやカラオケで興じることのできる世の中になって、誠に申し訳ない、有難い時代だと思います。
 近頃は、路地に入っても、片側駐車のできるようになり、しばらく地元を離れている人が帰ってくると、この変りように目を見張ることが多いといいます。しかし、私たちは、家が建ち変ったり、道が整備されても、すぐその環境になれてしまって、当然のような気分になってしまいます。
 道ばたで、蕗のとうや雪の下を摘んだ石垣はなく、しじみやザリガニをとった溝は今はうめられてしまって、何か、一抹の淋しさを禁じ得ないのは事実であります。
 こうした地形の変化はもとより、生活のなかでの変りよう、つまり、風習、しきたり、語り草、行事その他もろもろのことが変わりつつあり、変るだけでなく、忘れ去らようとしています。
 “あのおじいさんがよく知っていたが、あの時、もっとしっかり聞いとけばよかったのに”・・・・・・と、或いは、“昔の者は、何でも書き残してくれればよかったのに”と後で気がついたり、残念に思うことがしばしばあります。
 このことが、善いにつけ、悪いにつけ、昔はこんなんだった、と想像するだけでも、面白いし、参考になります。
 経験のない私たちは、ふだん家庭内で、年寄りから、いろんな話を聞いても、なにくわぬ顔で聞き流していますが、お年寄りが亡くなれば、いくら探し求めても、再び知ることができなくなってしまいます。(中略)
 記録ということは、これは面倒なことでありますが、大切なことで、どんなに字が下手でも、文章がまずくても、書き留めておく癖を持ちたいもの、私たちが昔の人を批判する前に、先ず自分の身近なことから綴っておくことが必要だと思います。


これこそ、私が日々おもっていることやん!と共感しました。
糸原・宮本・岩井廃村で出会ったお母さんたちから聞いた物語。
ぜひ、後々の世にまで、伝えていってほしいなぁと思います。
それに、あらためて、自分がやるべきことを再認識しました。


まったく、うまくまとめられなかった上に、長々と文字ばかりですみませんでした。
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by deity_river | 2011-05-08 22:01 | しゅみ | Comments(4)

 昨年7月に餅耕地の朝日家へお伺いした帰りに、斎神社へ寄りました。
そこには、「お走り祭り」の看板がありました。
それをみたやまあそさんに「昔は、御祓山の山頂(近く)に御井神社っていうのがあって、お走り祭りの時にはそこまで神輿を担いであがっていたらしいで」と聞きました。
そして、いつかその場所も行って見てみたいと言われていました。

 それから半年、お正月に但馬の祖母と話しているときに、ふいに「お走り祭り」の話になりました。
祖母は、船谷の日枝神社で、お走り祭りの神輿が休憩しているのを小さいとときから見ているそうです。

私の頭の片隅には、いつか、その「お走り祭り」を見てみたいという気持ちが湧いてきました。
調べてみると、それは、4月の中頃とのこと。
きっと平日だろうと思って、あきらめていましたが、今年は4月17日でした。
私が、作畑観音講へお参りに行っていた日・・・・。
この日にお祭りだったと知ったのは、終わったあとでした。
それを知ったと気には、とっても悔しい思いでいっぱいでした。

 しかし、GW間近、やまあそさんから「みはらいやまのみい神社あとにゆきます」と連絡がありました。
御祓山の御井神社跡・・・・。
たしか、お走り祭りの神輿がかつてあがっていたと聞いたことが記憶の片隅からよみがえってきました。
見れることができなかったお祭りの代わりに、絶対に行ってみたい場所です。
それに、お走り祭りと関係なくても、「山にかつて神社があった」と聞いたら、興味が湧くわたしです。
どうしても、自分の目で神社が一体どこにあったのか、確かめて見たかったので、無理を言って、私の都合にあわせていただきました。

 やまあそさんの考えてくださったルートはみづめ桜をみて、御井神社の跡を探した後に、御祓山までいき、そこから西に向かって延びていてる尾根をつたって、大屋富士まで行くそうです。そのピークの手前(東側)にはふもとの糸原地区の産霊神社の跡があるそうです。今日は2つも神社跡を見ることができるコースです。


 5月2日。
私にお走り祭りへの興味の種をまいた?やまあそさんと一緒にいくことになりました。

大屋糸原地区の南の谷、みずめ桜のある谷が駐車場です。
私たちが着いたときには3台の車が止まっていました。
あれれ?そのうちの1台のナンバーに見覚えがあります。(私は車種は覚えられませんが、番号はだいたい覚えることができます。分かりやすいと、すぐに覚えます)
もしかして、笠形山で偶然お会いしたNご夫妻?

そして、いよいよ最初の目的地、「みずめ桜」に向かってスタートです。
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最初は杉の林の林道です。橋には、林道鉄道に使っていたレールが欄干になっています。
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(そこにのってみるやまあそさん)
しばらく行くと、明るい森です。
ここは「ミツバツツジ」がたくさんあり、斜面がピンク色になることで有名なのですが、ちょっと時期がおそかったので、ツツジはほとんど終わっていました。でもところどころでかろうじでのこっていたので、それを観察ながら、歩きました。
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右手には、スリガ峰(大杉山)とアオマ山(須留ヶ峰)がよく見えています。
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(左のピークがスリガ峰・右のピークがアオマ山)

その間、みずめ桜までの距離をしめした看板がたくさんありました。
ここで500m。
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次の看板は、あれれ?
数字が増えている?歩いたのに、目的地までの距離が延びるのは何故なのでしょう・・・。
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(しかも、8に×がついて、下に700mと書き直しが・・・)

そうこういっているうちに、「みずめ桜」が見えてきました。
そしたら、桜の木の近くにご夫妻の姿が・・・。

わたしはNご夫妻だとわかったいたので、おどろかそうと思って、やまあそさんの後ろにかくれて様子を伺っていましたが、夫人が手を振られていたので、ばれたのか~っと思って、手を振りかえしたら、実はわたしたちを別の夫妻だと思って手を振られていたとのこと。
そして、笠形山以来の偶然の出会いに、みずめ桜の下で話が盛り上がりました。
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(本当に奇遇でしたね~。その2日後は、山ちゃんと「またに山」に行く予定だったのですが、ご夫妻もご一緒であることをここで知りました。)

私はてっきり、今から山頂に行かれるのかと思い込んでいましたが、Nご夫妻はすでに山頂にいかれ、下山途中でした。え~、早い!私たち、いまから登って、御祓山の山頂で昼食だったらいいなぁとうペースだったんですけど・・・・。

偶然の出会いに惜しみつつ、私たちのコースはこれからなので、別れを告げました。
桜の木のところまで来ると、男性がカメラで桜をとっておられました。
看板には樹齢約600年とあります。ということは1400年代から生きているということですか・・・。
私には信じられません。
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(これがみずめ桜です)
そして、しばらくすると、単独男性ハイカーさんとすれ違いました。その方も下山途中。
ということは、これで、下に駐車してあった車の持ち主の方とはみんなすれ違ったことになります。

そして、尾根に入ると、ロープが・・・。
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(地面にはケーブルがあります)
ロープもって登るのは苦手です。私のストックを持ってもらい、ロープを握って登りますが、
そんな登り方危ない!と上からやまあそさんに叱られます。
「ロープを両手で持ってしまうと、ロープに頼っていることになるから、万が一ロープが切れたら、斜面から滑りおちてしまうやんか!ロープを持つなら片手だけで、もう一方で地面につく。」とのこと。はい。以後、気をつけます。

そして、尾根へ。
尾根にでると、テレビの共同アンテナの部品が落ちています。
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これは真空管というものらしいです。
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アナログ世界?に生きている私にはさっぱり。
私に機械のことは何を言っても無理だと思ったやまあそさんは、説明さえもしてくれなくなりました。
(だって、小中学校で教わらなかったんです、と言い訳する。実際そうなんですけどね・・・。)こちらはアンテナの残骸・・・・。
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(確か、生野の太盛山でも同じような状態のものをみました。)

 御井神社の跡が正確には分からなかったので、少し休憩して、体力を戻してから、探しました。
すると、やまそさんは、すぐに見つけれました。でも、私にはわからず、ついていくと、確かに尾根からちょっと降りたところに石碑がありました。実は、場所しっていたんちゃうん?というぐらい、本当にあっさり見つかりました。
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特に石碑に、年号や世話人の名前はありません。
やまあそさんは、「この石碑のあるところは、地形的にお社がかつてあった場所にみえへんなぁ。だいたいこの場所やと思うけど、広さでいったら、もう少し東の方がなるいところが広いし・・・」といわれました。
このあたりに、なにか石垣でもあれば、そこがかつての神社跡だと明確に分かりますが、ミズナラ?の木がたくさんあり、落葉がすごくて、そんな跡はまったく見つかりませんでした。
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(神社の跡っぽい広い尾根)

そして、御祓山への登山コースに戻って、山頂へいき、昼食です。
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山頂からは、千ヶ峰も見えるとのことですが、あまりにも黄砂がひどくて、まったくみえず・・・。


昼食後は、西へと延びている尾根につたって歩きます。
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途中に、いきなり林道が・・・。林道を歩きました。

そして、今度は林道から外れます
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(はずれるポイントには何故がバイク?のテールランプ?がある)

まだ尾根を歩きます。
途中、やまあそさんは左手に見える山の斜面を観察されています。今から行く産霊神社の跡を見た後に、糸原集落におりる道を探されています。
神社跡なので、村の人が参拝するために使っていた山道がのこっているといいのですが、なくなっている可能大なのと、地形図でみると、結構急な斜面だったで安全に下りられる道をさがしているとのこと。
わたしは、まったく林道に気がつきませんが、やまあそさんは発見されました。指さされても、分からないのが私。

なんて観察力がないのだろうと、嘆きながら歩いていると、今度は怪しい石が。
粘土質の土に丸い石が大量に挟まっています。
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これをみたやまあそさんは「この丸いのは河原の石やん。ってことは、今はここは山の上になっとるけど、昔は川で、地殻変動によってここまであがってきたんやわ。昔、スリガ峰(大杉山)の山頂が海にあったころ、船が行き来している時に、船の底がスリガ峰の山頂をこすったから“スリガ峰”っていう名前がついたって民話にあったやん」といわれました。
但馬は、昔、泥の海だったというのはたくさんの民話に出てきますが、この丸い石たちが、証拠(?)です!!

そして、天狗岩っぽい岩をみつける。そこに乗ってみる。
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(あのピークが「大屋富士」!)

遊んだあとは、また歩き始めました。
鹿柵が現われ、鹿柵沿いに歩きます。
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(途中、いくつかゲートをあける)

そして、鹿柵沿いから少し右手の杉林の中に入ってゆくとに、いかにも神社跡という場所が見えてきました。
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その真ん中に「村社之旧趾」と刻まれた跡碑があります。
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裏を見ると「明治39年午八月 移転」とあります。

私たちは、神社の参道があっただろうと思われる斜面を観察しますが、それらしきものはみつからず・・・しかも、急。

なので、さっき、尾根伝いに歩いているときに見つけた、大屋富士と言われているピークの斜面にある林道から下りる作戦です。

ここの三角点のある山は大屋町の地域局からみると富士のような形をしているので、「大屋富士」をハイキングの本に書いてあるそうですが、やまあそさんの話では「ぜったいちがう。地元では地元の名前があるはずや」とのこと。

山頂からすこし南に降りたところにはなるい場所があり、そこで、すこし休憩した後は、前回に引き続き、ピタゴラスイッチです。
二人だけの寂しい演奏?
いえいえ、ナラもツツジもあるし、、鳥のさえずりもあり、寂しくなんてありません。
前回は私はアンデスを吹き、やまあそさんに迷惑をかけたので、今回は必死にアルトリコーダーを練習して軽量化です。


(練習では上手くいったのに、本番では上手くいかないわたしです。間違えまくりですが、おゆるしください。)

演奏を楽しんだ後は、斜面をちょっと下ったところから始まる林道を歩きます。

林道を歩いていると、みづめ桜や御祓山がみえてき、今まで歩いてきたルートがよく見えました。
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途中、何故か、わたしは幹におもいっきりトゲの生えている木をがっしり掴んでしまい、左手を負傷。
やまあそさんに「手袋を持っているならつけたほうがいい」と言われ、手袋をつけますが、持っていた手袋はスノー用しかなかったので、はめていると暑くなり、手のひらに大量に汗をかいた上に、トゲが手に入ったままで痛いので、かなりテンションが下がります・・・。(トゲはもちろんお家に帰って抜きました)その途中に、わらびを見つけてテンションが盛り上がってきましたが、採ってる時間がない!といわれ、またもやテンションが下がりました。

そういうしているうちに、杉の林に突入。
ここには、ものすごい数の棚田・桑畑跡がありました。
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私は、石垣をみてテンションが再びあがってきました。石垣にあるかもしれないガマを探しました。
でも、らしきものはありましたが、明確にわかるガマはありませんでした・・・。

その棚田の間を流れる沢沿いに歩いて、無事に、里に下りてくることができました。
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 そして、里に入ると、おばあちゃんが畑仕事をされていました。
やまあそさんはすかさず、挨拶をされ、「私たち、みずめ桜を見て、御祓山に登って、この上の山にあった産霊神社の跡を見てきたんです。今は、大屋富士と呼ばれているようですが、あの山はなんという名前の山ですか?」と質問されました。
おばあちゃんから宮山と呼ばれていたことを聞きました。
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(本日はじめてのインタビュー)

おばあちゃんにお礼を言って、現在の産霊神社に向かいました。
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神社の中には阿弥陀堂もあり、ここでは、青倉さんもお祭りされていると発見。
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神社から下りてくると、おばあちゃん達が道にへたりこんで歓談中。そこに、GWで帰省中の男性も合流。
やまあそさんは、また、同じようなことを話をされました。
そこで、分かったのは「大屋富士は糸原では“宮山”と呼ばれていること。そして、さっきみた広大な石垣の下のほうは田んぼで、上のほうは桑畑だったということ。宮山の上のほうは地区の共有林で、下のほうは個人山ということ」でした。
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おばあちゃんたちと男性に、お礼を述べて、別れを告げて、駐車ポイントへ戻りました。
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(もろろん、車はやまあそ号だけ)


 今度は、宮本集落へ。
宮本集落の神社は、御祓山から下りてきたといわれている宮本御井神社があります。翌日の5月3日がお祭りだといことで、集落内には旗が立っていました。

糸原集落でかなり時間を使ってしまい、宮本御井神社は鳥居を見るだけをなってしまいました。
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御井神社の鳥居だけでも見ようと、立ち寄ると、お母さんが庭の手入れをされていました。
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やまあそさんは、またもや「私たち、さっき御祓山にいってきて、御井神社の跡をみてきたんです」とお話をされました。すると、お母さんが「御井神社の昔のことは、Tさんが詳しいから、しょうかいしてあげるよ」と手を止めて、お家へ案内していただきました。しかし、お留守でした。
でも、お仕事かもしれないと、わざわざ仕事場まで、案内していただきました。
このときは、留守(お仕事中?)だったので、お話を聞けませんでしたが、また、紹介しておきますねとおしゃってくださいました。集落を歩いていると、また別のお母さんと出会い、また、やまあそさんは説明をされていました・・・。

 やまあそさんの話では「御井神社は、今は何がお祭りされているのか正確にはわからないけど、昔“岩井牛頭天王社”と呼ばれていた。その岩井というのは、宮本より山の上で、カカナベ峠の手前にあった集落の名前で、その集落は今は消滅してしまっているけど、昔、集落があったところに山小屋みたいなのを作って、年に何回か集まっているらしい。その集まりに偶然出会い、お話を聞いたことがある」と話されました。
 そして、カカナベ峠に差し掛かり、岩井集落がかつてあったところを見ようとしたら、おや?車が止まっているではありませんか!もしかして、今日はその、岩井の人たちが集まっている日?
山小屋を訪問すると、数名の方がいらっしゃいました。

そして、やまあそさんはまた「御井神社の跡をみてきました。」とお話をされています。
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お母さんたちが岩井集落出身だそうです。
お母さんのお話では、岩井の集落は昭和45年まであったそうで、お母さん達が最後にでられたそうです。私たちでみた御井神社の石碑を山まで担いであがった方の名前も「石田源じゅうろうさん」と教えていただきました。
そして、むかし、あの神社には牛頭天王さんがお祭りされていたけど、茶色い牛の背にのって、川を下って、宮本の集落に下りてしまった。その牛の足跡が川の石にあって、それを見たことがあると聞きました。
それに、「ここは武田の里で、ここには埋蔵金があるのかもしれない」そうです。その歌も教えていただきました。
そして、お母さん達にコーヒーとお菓子を頂き、五右衛門風呂も見学させていただきました。
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(入りたかったなぁ・・・・。絶対に気持ちよかったと思います。)
これは、本当に使っていた五右衛門風呂の釜を再利用したそうです。


元・岩井集落の方に別れを告げて、カカナベ峠を越えて、帰路に着きました。


※ブログには文字制限があるようで、書き切れなかった後編は、こちらへ。
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by deity_river | 2011-05-04 00:24 | しゅみ | Comments(9)

1月2日(the other story)

 この日は、母の実家へ。
父が、「ちょっと、一番奥の集落へ行ってみたい」というので、除雪車が来ているぎりぎりのところまで車を走らせてみました。
もうこれ以上は除雪がされていないというところまでやってきて、あたりを見回していると、お地蔵さま?がいらっしゃいまいた。ほんで、気になったので、雪を掻き分け近づいていきました。
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私は、石仏の見分けは全くちんぷんかんぷんですが(お大師さんと大日如来ぐらいしか見分けがつかない)、いつ・誰が・どういう願いを込めて作られたのが気になって、一生懸命、掘られた文字を見ていました。
ほんで、大体読めたので、引き返そうとおもって、ふと右をみたら、何やら一回り大きな石が・・・・。

それをしゃがんで、じーっとみて見ると、その石に「右 出石道  左 やまみち」を書いてあります。
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あー、これ、道標やんか!とひとりで喜んで(なんというか、「道標」をみつけると、昔の人はこれを見て歩く方向を確かめたのかと思い、嬉しくなるのです)、どこが出石道かなぁ・・と山を見ていました。
この道標が昔と変わりなくあるなら、「右 出石道」のさす方向はこっちかなぁと思ってみていました。

おそらく右の坂道をあがって、正面にある山の右手にある谷が昔の出石街道です。(現在は左の谷に出石にぬける新しい林道がつけられています)
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(私が道標を見つけたので、一生懸命文字を読んでいる父)

 家に帰ってきたから、祖母に旧出石街道のことを聞きました。
すると「昔はなぁ、あの道は出石の殿さまの参勤交代の道やったって、ここのおばあさんがようゆうとりんなったわぁ。その峠に昔、石があって、殿さまのカゴをおいとりんなったそうやで。ほんで、そこにお地蔵さんがおんなるらしいで。」と話してくれました。
(昨春の法事の時に、宝積寺のお坊さんから、出石へのあたらしい林道ができた折に、旧峠から丁石を拝んでもって下りたと伺いましたので、旧峠には丁石はなさそうです)

最近、昔の峠道を歩くのが趣味なので、この道標のさす、「出石道」もとっても気になります。



 ほんで、家で休んでいたら、養父神社の方(宮司さん?)が新しいお札を持って来られました。
そのお札には「養父大明神 山野口神社」と書かれています。
養父大明神というのはよく聞きますが、山野口神社はぜんぜん聞いたことがありません。
祖母に聞いたら、「今は、養父神社の山野口神社になってるけど、昔は奥米地の水谷神社が元々の山野口神社らしいってことを、ここのおばあさんからきいたわぁ」と話してくれました。

ほんで、奥米地の水谷神社にも行って来ました。
とくに、そんなことは書いてなく、ネッテイ相撲のことしか看板はありませんでしたが、たくさんお社がありました。(あちゃ、写真撮り忘れた・・・)


 祖母に、そういえば「養父神社ってゆうたらな、建屋谷の長野の斎神社まで神輿をひっぱるお祭りあるんやんなぁ」と話を切り出したら、祖母は私がそんなことを知っていることにびっくりしていました。(なんとなく斎神社に寄ったときに、看板にそう書いてあったし、『やぶの民話』を読んだんです)
ほんで、建屋谷生まれの祖母は、そのお祭りの思い出話をくれました。「養父神社から斎神社にいく途中に、船谷の日枝神社があってな。そこによう見に行きよったなぁ」と話をしてくれました。

 最後に、私は「まぁ、こんなこと知っとっても、ぜんぜんお金にもなんにもならへんけどなぁ・・・」と、本心をつぶやくと、祖母は「まぁ、お金にはならへんけどな。かわりに“心が豊かになる”やんか。昔のことを知ることはええこっちゃで。」と言ってくれました。
ああ、ありがとう、おばあちゃん。
たぶん、おばあちゃんは何気なく口にした言葉かも知れませんが、私は救われた気持ちになりました。


そのうち雪がなくなったらこの旧出石街道あるこう!
それに、ここに来るまでにも、道ぶちにたくさん石仏があったので気になっていました。
また、そのうちに・・・(いつになるかなー??)
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by deity_river | 2011-01-03 22:20 | ふうけい | Comments(4)

 こちらは、母方のご先祖さまのお盆の様子です。

作畑はオガラで作った松明に火をつけますが、こちらはないようです。
ですが、初盆なので、廊下には白い堤燈がありました。
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これはお仏壇のお供えです。
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ナスの馬は作る習慣はないそうです。
代わりに、家で採れたサンショウやミョウガもお供えしてありました。

仏壇の花に、オガラを入れてなかったので、そういう習慣もないようです。


 こうやって、いろんな地域の風習を比べて見るのもおもしろいです。
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by deity_river | 2010-08-15 22:10 | ぎょうじ | Comments(0)

地元の暮らしの様子や日々思ったことを更新中。なくしたくないものがたくさんあるから。