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人ってどうやって繋がるのか予測不可能です。

 5月26日。
この日は、初めて自分の運転で、加古川へ行ってきました。
目的は、ある人と出会うためでした。


 初めてお会いしたのは、3月27日にあった加古川のおかげさまというカフェであった、手作り市です。
時間がなくて、少ししかおはなしできなかったのですが、ちょっとお話しただけで、私は勝手に「思いは一緒」と感じました。

 
 そして、さっそく、1軒目のカフェへ。
ここは加古川ではなく、正確には高砂市です。
西国街道にある古民家を改装したカフェです。
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私が「ここの街道筋はお家は建てかえてあるから、昔のお家はほとんどないですねー」といっていたのですが、最初に訪れたカフェの建物は、まさに昔の雰囲気がありました。

一歩入って、その雰囲気にすごい!と圧倒しました。
隅々まで、こだわりを感じました。
それなのに、このまったりした雰囲気はそこから出ているのでしょうか・・・・。
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cafe le soleil et la lune
 open 11:00~18:00(Thu~Sat)



 次は、投松へ。
私が、「なんか、加古川といっても、田舎道ですね~」と言いながら、運転していたら、「ここは、加古川の端っこよ~!今日、あなたは、加古川の端っこばっかり走っているからー!」と突っ込まれました。

あれ、看板をみてなんか、聞いたことあるような・・・・。
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思い出せば、私はちょうど2日前の新聞で、こちらで綿の苗を販売していて、糸紡ぎ体験ができると読んでいたのです。
それに、ちょうどお昼ご飯の時間です。
お昼を食べるついでに、糸紡ぎ体験です。

お昼ご飯です。
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そして、糸紡ぎです。
まずは、綿の種採りです。
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(これが、見かけによらず難しいのです。私は空回りばっかり)

つぎに、紡ぐ体験。
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本当は、ここまでしたかったのですが・・・・・。
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紡ぐ体験でなかなかコツがつかめなくて、断念。

他にも、糸紡ぎ体験をされていました。一番左が先生。
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お家のお土産に、綿の苗を仕入れました。
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(さっそく、父にプレゼントして、綿の苗を畑に植えてもらいました)

チーズケーキ工房 悠&エリー
 open 10:30~16:00


 そして、最後は、こちらです。
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あら、「蘇民将来子孫也」というちまきがあるではありませんか!京都以外の家で見たのは初めてです。これを玄関に飾ると厄除けになるのです。

さっそくなかへ・・・。
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隣の市立図書館で本を借りてきてもいいし、ここにおいてある本を読んでもいいし・・・。
でも、読むというより、私はひたすら喋っていました。

book cafe されど・・・
 open お昼~夕暮れ時
 close Mon、1st・3rdSun



 そして、最後になりましたが、この日、この三つを一緒に巡ったのは、歴史民俗誌『Sala』の編集長のふみゑさんです。
ふみゑさんと出会ったのも、本当に偶然の重なりです。

最初のきっかけは、誠太郎さんから面白い本があるからと『Sala』という雑誌を1冊頂いたことに始まります。
でも、そのうちに、まさか私が原稿を書かせていただけるなんて思いませんでしたし、まさかふみゑさんと偶然にもおかげさまの手作り市で、お会いできるとは思ってもいませんでした。

人ってどうやって繋がるのかわかりませんね。

おかげさま手作り市のあとに、ふみゑさんからすぐに、こんな記事をいただきました。


ふるさとを出て二十年ほどたった頃、神河町作畑に住む郷土史家足立誠太郎さんの著書「ふるさとの民話史話」に出会った。そこに書かれた旧越知谷村の歴史は谷筋が違う多可郡と無縁でないことを知った。  
それまで私の中にあった、車が走り易い道をよしとする考えや、郡ごと町ごとで括ろうとする固定観念が完全に消えた。
加美区奥荒田から高坂峠を越えると越知谷という細長い谷がある。
明治二十九年、林業の発達で越知川沿いに粟賀まで出られる道路の建設が始まり。それまでは多可郡であった越知谷村は神崎郡に編入となった。それでも多可郡とは大正のはじめ頃まで盛んに交流があった。 
多可郡に住む者が千ヶ峰を愛するように、越知谷村の人にとっても北面に見る千ヶ峰はふるさとの大切な山だ。千ヶ峰の市原峠を行き来して和紙の原料やコンニャク玉を出荷し米を持ち帰ったという。炭焼きをしながら山の上で嫁とりの話がまとまったとか。母の生家から高坂峠を見ながら、その峠を越えて嫁いで行った人の話を聞いたこともあった。
峠を通らねば村を出ることが出来なかった村人の苦労を知ってから、私は昔の暮らしのことをよく考えるようになった。
その頃に私は、井出孫六著「峠を歩く」を読んでいる。明治初期の自由民権運動の旗手が、鉄道も通じていない信州佐久盆地の最も山寄りの村の出身者であるにも関わらず、新刊の書物をよく読み、世の情勢に明るかった。辺鄙と思っていた村は実は直線で峠越えをして都会に繋がっていた。想像以上に物や文化や情報伝達が速かった、と書かれていた。
峠の話しはわが身にも身近にあった。五歳の頃に父に連れられて深い山の中の神社に行ったことがある。中村町駅から朝早い列車に乗って何回も乗りかえて遠い遠いところの駅で降りた。駅前からバスに乗って登山口まで行き、山深く登っていった。途中だれにも合わない、父と兄と私の三人だけだった。
着いたところには恐いような岩場があった。白い着物を着た女の人が水に打たれていた。拝殿があったはずだが記憶になく、民宿のような大きな建物を覚えている。そこで、青い色に赤い鯛の絵柄のお茶碗で食事をした。父は岩を流れる水を一升瓶、二本に入れ、振り分けにして持ち帰った。翌日から毎日、目の悪い私と兄はその水で眼を洗った。目の神さまのありがたい御霊水を汲みにいったのだった。
「あれはいったいどこの山だったの」と、母に聞いたときには父は亡くなっていた。
「朝来の青倉さんやがな」思いめぐらすこともなく、母は即答した。
「なんでそんな遠いところを知ってたの」
「遠いことない。すぐそこやで。みんな山を越えて歩いて行ってたで。あんたが子供やから姫路に出て播但線に乗り継いで行ったんやで。湧き出る水にはホウ酸が含まれているらしい。水を汲みに行けないときは、行く人に頼んだもんや。汲んできた水は暗い所に置いておけば一年は腐らなかったからな」
 私は、はっ、として地図を出した。
朝来町の青倉山を捜してじっと眺めた。
青倉山を円心に約12キロの円を描くと、線上近くに西から佐治(丹波市)、西山(多可郡)、千ヶ峰頂上(多可・神崎郡)、作畑(神崎郡)、神子畑(朝来市)、寺内(朝来市)、夜久野(京都府)が認められた。
 それからの私は、鳥の目になって、上空から町や村や山を見るようになった。まるで平面な地図を見るように。すると、用がなくなって草に埋もれ、自然に帰った古い峠道が甦り、荷物を背負った先人のしっかりと歩む姿が見えてくるのだった。


この記事は多可の雑誌に載っています。

これを見たときに、私の山歩きとおんなじやなぁと思いました。
もちろん山の上に行くのも楽しいですが、昔の人が歩いたという道をたどるほうがもっと楽しいのです。

そのうち、Salaに私の大好きな峠道を載せたいなぁと思います。
でも、いつになったら、書けるのか・・・。
「書く作業」はけっこう大変です。
ましてもや、すぐに修正がきかず、いろんな方が見られる本となれば・・・。
by deity_river | 2011-05-28 20:49 | しゅみ

地元の暮らしの様子や日々思ったことを更新中。なくしたくないものがたくさんあるから。

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