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小佐谷の弾丸列車の軌道跡を歩く(the other story)

 「弾丸列車」という存在を知ったのは、先日の但馬妙見山歩きのとき。
明治時代に、日光院が、妙見山で育った杉の木を切り出し、八鹿駅まで運ぶために、小佐谷にそって、森林鉄道が走っていたそうです。その列車は、木の重さと傾斜のエネルギーだけ動き、弾丸のように早く駆け下っていたので「小佐谷の弾丸列車」といわれいていたそうです。(くわしくはこちらから)

 伯父さんから頂いた但馬妙見の資料に弾丸列車の軌道跡がありましたが、なんか、ちょっとおかしい(適当)です。
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やまあそさんも、手元に但馬妙見の弾丸列車の軌道跡の資料があると言われて、見せていただきましたが、わたしのと微妙に違います。
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(このあたりは正確そう)

というわけで、なるべく当時の弾丸列車軌道跡にそって、歩いてきました。

 9月25日。 
メンバーはやまあそさん、TQFさん、そして、はじめましての廃道とチャリが大好きK山さんです。

 八時半に八鹿の道の駅に集合して、まずは、日畑集落を目指します。
椿色(つばいろ)から、まっすぐいくと、名草神社ですが、今回は日畑へ行くので右折です。
日畑へ続く山と川に挟まれた細い道を行くと、道の脇で、「日畑谷 遭難者碑」という石仏がありました。これは、弾丸列車でなくなった方を弔う石碑だそう。
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そして、日畑集落へ入りました。ここは先ほどの細い道からは想像できないぐらい、土地が開けていて、おうちもたくさんあります。
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やまあそさんは、田んぼの作業をしているオイサンに「弾丸列車」のことを聞かれていますが、オイサンいわく「わしの親父とかの世代やから、わからん」とのこと。
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そして、日畑集落から加瀬尾集落を目指しました。
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(橋を渡る)
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加瀬尾集落へは、椿色からまっすぐに道路が出来ていますが、昔はこの道を使って生活をしていたようです。この道の脇には新旧の電柱があります。
峠道を歩いていくと、急に開けました。加瀬尾集落です。
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ここには、おじいちゃんがお一人お住まいだそうです。集落を歩いていると、そのおじいちゃんと犬に出会いました。おじいちゃんいわく「ここは冬になると2mも雪が積もる。妙見は4mや」と。
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(でも、犬がびっくりしてわんわんほえて会話にならず・・・)



加瀬尾集落の棚田跡を登って、弾丸列車の軌道跡の調査開始です。
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斜面を登っていると、道路に出ました。
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石原から名草神社への道路です。そこから参考資料の地図は大体の位置でしか軌道跡が書いていないので、地図と地形を見比べて歩きはじめると、最初に、昔の妙見参りの尾根道がありました。
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(妙見参道を歩いてみるわたし)

祖父からは、青年学校時代に「九鹿から椿色、石原の日光院の裏を登って、名草神社までは尾根道を歩いた」と聞いていました。まさに、その道です。祖父は、ほぼ70年前にこの道を歩いていたことになります。

その参道があるところの斜面を適当に下っていると、斜面に幅1,5mぐらいのなるい道のようなものを発見!!やまあそさんは「これが、弾丸列車の軌道跡や!」と興奮されています。斜面から軌道跡の途中に降りてきたので、さかのぼって、軌道の始まりを見に行きました。すると、さっきの、加瀬尾の棚田跡から登った道とぶつかりました。やまあそさんと、TQFさん、K山さんは「これは、棚田の一部かとおもって、見逃していた」と言われています。私は、つかれていて、もうすぐ、道路やということで頭がいっぱいで、全く見ていませんでした・・・。

そして、いよいよ弾丸列車の軌道跡をたどります。
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ここは、いくつかある弾丸列車の軌道の中の「桜谷支線」というそうです。ここからは、ずっとくだりです(下りでないと、進みませんもんね・・・)ちゃんと道が残っていて、へたれの私でも、ルンルン歩けます。
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(軌道跡に大木が・・・!木の成長ははやいんですね)


沢を渡る。
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まだまだ気持ちよい軌道跡は続きます。
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高度が下がってきたら水辺が近くなるので、軌道跡が崩れています・・・。
そして、南土場へつきました。
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谷なので、道が崩れかけています。ここから奥には、「妙見支線」があったようです。
川の対岸には、「大石谷(おいしがたに)支線」があったそうです。

そして、「いってこい(スイッチバック)」を歩きました。
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そして、今日の一番の難関?の川渡りです。
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TQFさんは、怖いという気持ちをあまり感じないのか、ひょいっとわたられています。
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わたしは、いつもどおり、ワーワー言いながら渡りました。(おしりからどぼんといかなくてよかった・・・)

TQFさんはそれよりも、この沢のお魚が気になる様子です。
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川を渡ったところには、資料には、ここには「妙見山神様(山の神さん)と一本杉」が書いてありますが、今はありません。


 すんなりと(?)軌道跡を歩けたので、次は、日高の観音寺地区からの妙見参道を歩きました。
今までゆるやかな下りだったのに、今度は登りなので、バテバテでなかなか進まなくて、TQFさんと、やまあそさんに押してもらいながら、歩きました。
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(つかれた背中)

しばらく歩くと、道標がありました。
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「右 おさたに   左 くわんおんじ こくぶんじ 道」です。
そこからもうちょっと、のぼると、休み堂がありました。ここで昼食です。
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そして、道標のところに戻ってきて、観音寺方面を目指します。
道標の裏には、石仏。
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続いて、磨崖仏があります。
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いい妙見参道が続いていますが、だんだんなんだか、怪しくなってきました。倒木ありの、道くずれありの・・・。
しばらく歩いていましたが、大きく崩れている場所に着きました。わたしがビビッているし、K山さんも普段は山歩きをしていないので、ちょっと怖かったらしく、やまあそさんとTQFさんが先に道があるか確認されました。待つこと約30分(?)。ここから先は、道が崩れているし、資料の妙見参りの道と違って、斜面をおおきく巻いているので、ここから先は厳しいとのこと。
あきらめて、引き返しました。
途中、行きに歩いてきた妙見参道ではなくて、尾根をあるきました。
そしてら、怪しい山小屋発見。
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そこから、ソマ道があったので、歩いていくと、妙見参道と合流して、川をわたっところへ戻ってきました。
これで、妙見参道歩きは終了です。

川沿いの日畑への道を歩いて、スタート地点となった日畑集落の中心へ戻ります。
その途中に石仏がありました。女性で、目を瞑っています。
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豊岡累層がありました。ここには、丸い石が多数見られます。御祓山でもみた「れき岩」です。
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そのここからジャワーのように水が降って来ていたので、やまあそさんは恒例(?)の水浴びをされていますが・・・。
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(暑いな~!)

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(どーん!)(やめてよー!)

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(あーつめたかった!)

そして、日畑集落へ帰って来ました。
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日畑にはこのような言い伝えがあります。
<日畑千軒>
 その昔、日畑には人家が千軒もあったという。妙見山の麓の谷間・日畑川の上流にどうして千軒も家があつまったのだろう。
 それは鎌倉時代(1185~1333)、源頼朝が征夷大将軍となって武家政治の基を固めようとしていた頃、日畑の山から質のよい鉱脈が見つかった、銀も多量に含まれていた。
当時の人々は、“石のみ”を持って、こつこつと鉱脈を探りながら掘っていった。
 今もその頃、掘ったという坑口が、日畑集落の上の方の山腹に雑草に覆われた口をのぞかせている。続々と金の採取には人が集まってきた。鉱石を砕いたという大きな石臼が今も旧家の庭に残っている。家数がどんどん増えて、採鉱の盛んなときには、千軒にも達したという。今も残る“精錬畑”や“鍛冶畑”という畑の俗称は、小規模ながらもその頃の人々の仕事場の名残であろう。坑道の深さは20メートルから30メートル位のもので。人間が腰をかがめてやっと通れるぐらいなものであるが、坑口は30位を数えるという。
 今、日畑集落が山の斜面の段々に建てられた家の集まりであるが、千軒もあったという頃は多くは加瀬尾側にあったと言われている。



まずは、みんなで日畑の三柱神社にお参りです。
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狛犬は加瀬尾の方の名前があります。
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加瀬尾という地区は日畑ととても関係があるのです。
 <加瀬尾のおいたち>
 妙見林道を登りつめて、村岡町に通じる分かれ道より妙見より谷川から遥か眼下を望むと、雄大な山肌を曲がりくねりながら上、中、下、三本の水平な溝筋が延々と果てし無く続きます。加瀬尾は日畑の先祖の人たちによって開拓されたといわれています。この村は高層地で、妙見の谷川の水を引かねば飲料水もありませんでした。 
 元禄14年(1701)日畑の庄兵衛さんが加瀬尾新田開発申請を願い出ております。それから5年後に人が住み着いたといわれておりますが、加瀬尾の人たちは生まれ育った日畑が恋しくて、加瀬尾から日畑にある我が家が見下ろせる場所に家を建て、朝夕手を振って合図しながら暮らしたということです。
 人々が生活するのに最も必要なのは水ですが、開発には多額の資金を必要とします。村人も、妙見との落差のほとんどない水路の構築も、人間の英知と労力を積み重ね積み重ねて、約16年の歳月を費やして村が出来たそうです。 
 最近では加瀬尾も例の過疎の波で約10軒に減ってしまい(※今は1軒)、家の周囲の田畑には杉が茂ってきましたが、先人たちの開拓えの辛苦を思うときへ感慨無量のものがあります。幸いに加瀬尾は平坦な土地であるために、旧八鹿町で一番広い田圃がこの村にあります。


みんなで神社にお参りしたのに、坑口探しになると、なぜか、おじさんたちお兄さんたちは、勝手気ままに行動。私は、どうしていいのかわからずに、ひとり、墓地でうろたえていました。

そうしていると、やまあそさんが、坑口を発見したと叫ばれたので、見に行きました。
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(ありましたー)

この坑口ではないかもしれませんが、三柱神社の近くにある坑口にはこんな言い伝えがあります。
<神さまのたたり>
 日畑の氏神は三柱神社です。この村が千軒もあったといわれる頃、金、銀の鉱脈を探しもとめて他国からもぞくぞくと人が集まってきました。
 たまたま三柱神社の近くで質のよい鉱脈が、多量にあることが見つかりました。大勢の人が奥へ奥へと掘り進んでいきました。20メートル、30メートルと掘って、ちょうど神社の真下あたりに進んだとき、細い坑内にたくさん灯していた火が、風もないのに一度にプッツリと消えてしまいました。真っ暗になった坑内では、人夫が頭痛に耐えられなくなって、一人減り、二人減ってとうとう発掘を中止してしまいました。
 これはきっと氏神さまの“たたり”だと人々は恐れをなして。それから後は誰一人としてその坑道へはいるものがありません。いまでも三柱神社の地底には沢山の金鉱が眠ったままだと伝えられています。 
 昔の人々は神のタタリだと考えたことと、現代人はどのように判断するでしょう。おそらく坑内に炭酸ガスかが充満したか、あるいは異常なガスが発生したかものと考えるでしょう。そだとすれば地下に眠る多量の金鉱も発掘の方法があるということになります。


わたしたちが、神社下の坑口を見ている間に、TQFさんは、墓地の裏の坑口を発見されたよう。

あれ?K山さんは??

TQFさんと合流できましたが、K山さんの姿がありません。
しばらくしてひょっこり現れました。K山さんは、ひとつも坑口をみていないといわれているので、やまあそさんが案内。

先に、TQFさんと車のところへ戻りました。その途中に、こんなの発見。
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そして、みんな合流して、解散しました。


 軌道跡には、特にレールもなく、ちょっとひろい道のようなもの以外は何も残っていませんが、かつてはレールがあって、妙見杉が運ばれてい当時の様子を想像することが出来ました。
妙見参りの道もしっかりと残っていたので(一部をのぞいて)、いかに多くの人が歩いていたかを想像することができます。


 昭和16、17年ごろ、八鹿駅前の井上製材で働いていた祖父は、その弾丸列車は見ていないそうですが、代わりに、バラスを運んでいるトロッコを見たそうです。ということは、昭和のはじめには、弾丸列車の軌道は木は運ばずに、石を運ぶ役目に変わったのかもしれませんね。

 今回もとっても楽しい時間でした。ありがとうございました。

ピンク太いマークが今回歩いた「桜谷支線」の軌道跡です。
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  追記。
 その後、やまあそさんが日畑集落を再訪されて、聞き取りをされたところ、今回歩いた「桜谷支線」は木馬道で、南土場には堰があって木を貯めておくところだったそうです。
妙見山から切り出された杉は木馬で山から下ろした後、南土場から始まる弾丸列車にのって、八鹿駅まで運ばれたそうです。
やまあそさんのレポートはこちらから。
by deity_river | 2011-09-29 22:27 | しゅみ

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