2012年 05月 03日
建屋山へ(the othor story)
YS11さんが未踏のひとつに建屋山があるという。実は、この山の麓の建屋谷地域には私の母方の親類がたくさんいらっしゃるのです。とくに、船谷集落には母方の祖母の実家があり、私にとってはとても身近に感じるところです。なにかおもしろいことが発見できるかもと思い、ついていくことにしました。
しかも、最近、船谷に行く機会がちょこちょことあり、祖母のお兄さんに山の話をうががうと、「船谷のケサカの谷の奥に『寺ヶ平(てらがなる)』というところがあり、そこはかつては船谷の大仙寺の寺跡だった。」聞きました。
他にも、いろいろ聞きましたが、まずは寺跡が気になります。これは、行って、目で確かめてみたいといけません。
4月29日。
メンバーはやまあそさん、YSさん、TQFさん、そして船谷のふたいとこ「ゆうすけ君」、そして、私こと作畑ガールです。(あ、ちなみに、ゆうすけくんとは「ふたいとこ」になるのですが、ゆうすけくんの母方の祖父と私の母方の祖母、そして、ゆうすけくんの母方の祖母と私の母方の祖父が本当のきょうだいです。ややこしい・・・。いろんな意味で、とても似ていると思います。)
まずは、下山地点にある船谷の日枝神社に集合です。
ゆうすけくんと(一緒にやってきたおいさん)をみんなに紹介しました。
TQFさんは、遅れるとのことで、出発地点となる古代村で、出会いました。
古代村の巨大な奇石を見ながら、尾根を目指します。
この日はとても暑く、登り始めてまもなく、汗が出てきます。
TQFさんは半そででくるんやったと重ね着を脱がれています。
ようやく、オオカミ岩にやってきました。
ゆうすけ君は「むかし、この上にお社があった」といい(自然学校のときにこの巨大な奇石めぐりをしたそう)、みんなで見上げていると、上にはTQFさん!! (金比羅さんのお社はなくなっていました)
その上から西を見ると、眺めがよいです。
いろんな岩を見ながら歩いていくと、途中に梯子が・・・。
わたしはこわくてへっぴり腰になって、なんとか登ります。
そののぼりきったところから西を見ると、真正面にスリガ峰(大杉山)が、その北に、1年前に御井神社と産霊神社の跡地を求めて歩いた御祓山やカカナベ峠が見えました。
大テング岩までくると、そこからいよいよ本格的な山歩きになります。
尾根道で建屋山を目指しますが、尾根はやぶになっていたので、少しまいて、鹿の歩いた道を歩きます。
このあたりから、私は遅れだします。
やまあそさんは「山頂手前100mが激のぼりだから、この中の誰かが死ぬかもしれん」といっています。
みんなは、着実に激のぼりを登っていきますが、私はゆっくりな上にちょっと小休止。声をかけられても、返事する元気があまりない・・・。
岩の上に足を掛けると、このあたりのはもろいらしく、何度か崩れました。
そして、みんなからだいぶん遅れを取りながらも、なんとか二等三角点・建屋山につきました。
このあたりから、能座と餅耕地の谷がよく見えました。
ここでお昼になったのですが、三角点の周りは木が刈りはらわれていて日陰がなく、ちょっと下がったところの杉の木の下で食べました。
下りは三角点から北の尾根を歩き、船谷を目指します。
下りのほうは、登りほどつらいという感じではなかったです。
暫く歩くと、その麓には船谷集落がみえました。遠くに但馬妙見や山頂の白い氷ノ山も見えました。
このあたりからたくさん植林されています。船谷のおいさんも植林したし、下刈りにこのあたりにこられたそうです。(このあたりの山を知っているからこそ、船谷の山は「さがい」(急)から危ないと、何度も言われました・・・)
そして、平坦地にある「毛坂」の四等三角点につきました。 (やまあそさんは「地図では毛坂」になっているけど、これは、船谷集落と隣の畑集落との境界にある谷だから「境坂」が「ケサカ」になったのかもしれない)といわれています)
三角点からは尾根を歩いて、ケサカの谷を目指します。
その途中、斜面にへんな平坦地があり、やまあそさんが「怪しい、寺跡かも」といわれています。私はそんなに気に留めずに下っていったのですが・・・・。
その平坦地あたりで、ヤマシャクヤクのつぼみ発見。
そして、その平坦地を下ると、急に巨大な岩が現れました。
ゆうすけ君は、「これは、なにか怪しい岩やな。」とつぶやいています。
大仙寺のご住職がかかれた文章にこのようなものがあります。
船谷のてらの前をまっすぐに行き、山の中に入った道を約五キロメートル入った奥山の字ケサカの山中に無数の大岩があった。これが後に山号(岩蔵)の元になったようである。(中略)この岩の上側に平坦地があり、そこに地蔵院、壽量光院、與光寺の大寺と大仙庵の小寺があったので、ここを寺が平という。(中略)狩猟中心の生活から米作りが急速に広がり、人も寺も山を降りて平地に定住していくようになり、大仙庵もヒナタに降りてくることとなる。白鳳時代の大化年間と推察できる。しかし、ここはナナメ筋(神様の通る道)にあたっており、寺屋敷としてはよくないとの理由で、後に文政年間に現在の袖谷に移転した。地蔵院は地蔵院観音堂がその移転先と思われる。與光寺は池上の山上に移転し、後に延久元年に現在の地に下りる。
また、この岩にはこんな言い伝えもあります。
この岩の中に大蛇が住んでおり、これが抜け出るといった。船谷の人は抜けて出られると困るのでその穴の付近に梨の木の杭を打ち込んだ、このため大蛇は船谷のほうへ出られずに畑村の方へ抜け出たということだ。この出た所を蛇抜け谷といい今もあると聞く。船谷の人が杭を打ち込んだため、この部落には梨がみのらないという話もある。
この文章をちゃんと覚えていれば、この平坦地は寺跡だということがわかります。
このときの私は寺跡かな?とおもいつつ、遅れ気味だったので、いそいで降りていきました。
そこから下っていくと、激下りになります。そこにはロープが張ってあり、歩きやすい??
下っていくと、平坦地が見えて、みんな「ここも怪しい、寺跡??」といっています。
平坦地には桜が植わっていて、それらを取り囲むように鉄パイプの柵がめぐらされています。その周りの山の斜面に段々があります。
前に船谷のおいさんから「ここは、畑地区のの桑畑やったよ」と聞いたことがあります。この段々畑の名残は桑畑でしょう。
また、船谷側は牛の放牧場で、牛が山を登って、畑のほうへ降りて、牛がたんぼの稲をたべて大変だったこともある」と聞いたことがあります。
そこから、峠へ降りて、船谷を目指します。 最初はうっすらと踏み跡がありますが、だんだんなくなり完全に消滅。しかも急斜面になり、私は悪戦苦闘。弱音を吐きつつもなんとか降りていたのですが、途中で私の足に山ビルが・・・!みんなはのんきに私にくっついたヒルの写真を撮っていますが・・・。
なくなった道も途中から見つかり、何とか無事に船谷集落に着きました。
山から下りてくると、村へ降りる林道がありました。その脇のウト谷には、滝があります。
TQFさんがその滝に寄って、掃除をすると、滝つぼのところがお風呂のようになっています。
おいさんからこのあたりは、牛の放牧場だったと聞いていたので、もしかしたら、牛の水飲み場かもしれません。ここに、大日如来の石碑があると聞いていたので、きょろきょろとしていたら、すぐ近くにありました。
文字塔です。 (おいさんの話では、8月28日に、ここで餅まきをしていたそうです)
そして、袖谷の林道を降りて、集落へ降りてきました。
その途中、古くて大きなお堂がありました。
その中を見てみると、阿弥陀三尊がお祀りされています。
おいさんの話では、四十九夜念仏といって、49日間を3ヶ月にまたがらすに2ヶ月間で終わるようにその間、3~5軒が組になって、お参りをするそうです。(同じような四十八夜念仏というのが、餅耕地でもありました)
お堂の脇には二体彫られた石仏もあります。
そして、日枝神社で解散しました。
後日、やまあそさんから頂いた養父町史のコピーによると、この日枝神社ももとは、寺ヶ平の西にある足谷(町史には大谷とかいてある)の突き当たりから少し上がった場所にすこし平坦地があり、それを宮山というそうです。
日枝神社では、「お当祭り」があります。これは宮山にあったときに生まれたであろうといわれています。
宮山に伸座されていた日枝神社は、洪水で流失して現在の地に留まり、摂社妙見宮は養父町稲津に流れ付き、その渕を「妙見渕」といい、ごく最近まで、「稲津のお祭りは船谷のお祭りと同日でなければならない」とされていたそうです。
2、3年前に、祖母が『やぶの民話』にある「岩見重太郎のヒヒ退治」というところをよんだときに、この日枝神社の関係を少し話してくれました。これ以上書くと脱線してしまうので、またの機会としましょう。
船谷には、船着場といわれるところもあるし、とても興味の尽きない場所です。
そもそも、船谷の名前の由来は「但馬一円が泥海であって、交通は船に頼っていたころのある日、ご神船の一双が流出した。その船が見つかった場所を船谷と名づけたのが、宮屋敷の麓・船谷である。」といわれています。(松明を持ち、失った船を捜すお祭りが大屋町宮本の御井神社であり、「まいっそ祭り」といわれています。「まいっそ」=「もう一艘ない」と夜をこめて探したのが始まりだそうです。)
しばらくして、ゆうすけくんから大日如来のあったところの戦時中ころかと思われる写真が送られてきました。
山の奥には、私たちが下りに使った道が明確に写っています。この時代に歩いていれば、私も難無く?歩けていたのでしょうか・・・・。
中央から少し右に見える、小屋は大日如来の石塔です。
この険しい船谷の山はなかなか優良な牛の産地だったそうです。
そして、牧草地の上はカヤ刈り場だったそうです。
また、おばちゃん(祖父の妹)からは「このあたりは、ぜんまいがよく採れて、とりに行ったもんです」と聞きました。
この写真を見せたら、ここで生まれ育った祖母はなつかしいというかもしれませんね。
ちなみにこの写真をとったのは、私たちの曽祖父・理之助さんです。
養父の市場に飾るために写真の中の人物も牛もカメラ目線だそうです。
船谷の放牧の風景とカヤ刈り場、そして、山菜取りの話を聞いて、作畑でいったら、千ヶ峰を思い出しました。
現在はハイカーと猟師ぐらいしか山へ行きませんが、かつて、石風呂の谷は同じように放牧され、カヤ刈りもされていました。そのことは作畑の祖父が時々思い出したように詳しく語ってくれます。祖母は千ヶ峰で山菜取りに夢中になり、迷子になったということもたまに話してくれます。
今は、地元の人は行かないようになってしまっている山も、かつては麓の村の人にとっては、なくてはならないもので、生活の一部であったことがとてもよくわかった山でした。
最近の私に忘れかけていたものを、いろいろと思い出させてくれた山歩きでした。
ありがとう、ゆうすけ君。
兵庫県の二等三角点を目指して歩かれているしかも、最近、船谷に行く機会がちょこちょことあり、祖母のお兄さんに山の話をうががうと、「船谷のケサカの谷の奥に『寺ヶ平(てらがなる)』というところがあり、そこはかつては船谷の大仙寺の寺跡だった。」聞きました。
他にも、いろいろ聞きましたが、まずは寺跡が気になります。これは、行って、目で確かめてみたいといけません。
4月29日。
メンバーはやまあそさん、YSさん、TQFさん、そして船谷のふたいとこ「ゆうすけ君」、そして、私こと作畑ガールです。(あ、ちなみに、ゆうすけくんとは「ふたいとこ」になるのですが、ゆうすけくんの母方の祖父と私の母方の祖母、そして、ゆうすけくんの母方の祖母と私の母方の祖父が本当のきょうだいです。ややこしい・・・。いろんな意味で、とても似ていると思います。)
まずは、下山地点にある船谷の日枝神社に集合です。
ゆうすけくんと(一緒にやってきたおいさん)をみんなに紹介しました。
TQFさんは、遅れるとのことで、出発地点となる古代村で、出会いました。
古代村の巨大な奇石を見ながら、尾根を目指します。
この日はとても暑く、登り始めてまもなく、汗が出てきます。
TQFさんは半そででくるんやったと重ね着を脱がれています。
ようやく、オオカミ岩にやってきました。
ゆうすけ君は「むかし、この上にお社があった」といい(自然学校のときにこの巨大な奇石めぐりをしたそう)、みんなで見上げていると、上にはTQFさん!!
その上から西を見ると、眺めがよいです。
いろんな岩を見ながら歩いていくと、途中に梯子が・・・。
わたしはこわくてへっぴり腰になって、なんとか登ります。
そののぼりきったところから西を見ると、真正面にスリガ峰(大杉山)が、その北に、1年前に御井神社と産霊神社の跡地を求めて歩いた御祓山やカカナベ峠が見えました。
大テング岩までくると、そこからいよいよ本格的な山歩きになります。
尾根道で建屋山を目指しますが、尾根はやぶになっていたので、少しまいて、鹿の歩いた道を歩きます。
このあたりから、私は遅れだします。
やまあそさんは「山頂手前100mが激のぼりだから、この中の誰かが死ぬかもしれん」といっています。
みんなは、着実に激のぼりを登っていきますが、私はゆっくりな上にちょっと小休止。声をかけられても、返事する元気があまりない・・・。
岩の上に足を掛けると、このあたりのはもろいらしく、何度か崩れました。
そして、みんなからだいぶん遅れを取りながらも、なんとか二等三角点・建屋山につきました。
このあたりから、能座と餅耕地の谷がよく見えました。
ここでお昼になったのですが、三角点の周りは木が刈りはらわれていて日陰がなく、ちょっと下がったところの杉の木の下で食べました。
下りは三角点から北の尾根を歩き、船谷を目指します。
下りのほうは、登りほどつらいという感じではなかったです。
暫く歩くと、その麓には船谷集落がみえました。遠くに但馬妙見や山頂の白い氷ノ山も見えました。
このあたりからたくさん植林されています。船谷のおいさんも植林したし、下刈りにこのあたりにこられたそうです。(このあたりの山を知っているからこそ、船谷の山は「さがい」(急)から危ないと、何度も言われました・・・)
そして、平坦地にある「毛坂」の四等三角点につきました。
三角点からは尾根を歩いて、ケサカの谷を目指します。
その途中、斜面にへんな平坦地があり、やまあそさんが「怪しい、寺跡かも」といわれています。私はそんなに気に留めずに下っていったのですが・・・・。
その平坦地あたりで、ヤマシャクヤクのつぼみ発見。
そして、その平坦地を下ると、急に巨大な岩が現れました。
ゆうすけ君は、「これは、なにか怪しい岩やな。」とつぶやいています。
大仙寺のご住職がかかれた文章にこのようなものがあります。
船谷のてらの前をまっすぐに行き、山の中に入った道を約五キロメートル入った奥山の字ケサカの山中に無数の大岩があった。これが後に山号(岩蔵)の元になったようである。(中略)この岩の上側に平坦地があり、そこに地蔵院、壽量光院、與光寺の大寺と大仙庵の小寺があったので、ここを寺が平という。(中略)狩猟中心の生活から米作りが急速に広がり、人も寺も山を降りて平地に定住していくようになり、大仙庵もヒナタに降りてくることとなる。白鳳時代の大化年間と推察できる。しかし、ここはナナメ筋(神様の通る道)にあたっており、寺屋敷としてはよくないとの理由で、後に文政年間に現在の袖谷に移転した。地蔵院は地蔵院観音堂がその移転先と思われる。與光寺は池上の山上に移転し、後に延久元年に現在の地に下りる。
また、この岩にはこんな言い伝えもあります。
この岩の中に大蛇が住んでおり、これが抜け出るといった。船谷の人は抜けて出られると困るのでその穴の付近に梨の木の杭を打ち込んだ、このため大蛇は船谷のほうへ出られずに畑村の方へ抜け出たということだ。この出た所を蛇抜け谷といい今もあると聞く。船谷の人が杭を打ち込んだため、この部落には梨がみのらないという話もある。
この文章をちゃんと覚えていれば、この平坦地は寺跡だということがわかります。
このときの私は寺跡かな?とおもいつつ、遅れ気味だったので、いそいで降りていきました。
そこから下っていくと、激下りになります。そこにはロープが張ってあり、歩きやすい??
下っていくと、平坦地が見えて、みんな「ここも怪しい、寺跡??」といっています。
平坦地には桜が植わっていて、それらを取り囲むように鉄パイプの柵がめぐらされています。その周りの山の斜面に段々があります。
前に船谷のおいさんから「ここは、畑地区のの桑畑やったよ」と聞いたことがあります。この段々畑の名残は桑畑でしょう。
また、船谷側は牛の放牧場で、牛が山を登って、畑のほうへ降りて、牛がたんぼの稲をたべて大変だったこともある」と聞いたことがあります。
そこから、峠へ降りて、船谷を目指します。
なくなった道も途中から見つかり、何とか無事に船谷集落に着きました。
山から下りてくると、村へ降りる林道がありました。その脇のウト谷には、滝があります。
TQFさんがその滝に寄って、掃除をすると、滝つぼのところがお風呂のようになっています。
おいさんからこのあたりは、牛の放牧場だったと聞いていたので、もしかしたら、牛の水飲み場かもしれません。ここに、大日如来の石碑があると聞いていたので、きょろきょろとしていたら、すぐ近くにありました。
文字塔です。
そして、袖谷の林道を降りて、集落へ降りてきました。
その途中、古くて大きなお堂がありました。
その中を見てみると、阿弥陀三尊がお祀りされています。
おいさんの話では、四十九夜念仏といって、49日間を3ヶ月にまたがらすに2ヶ月間で終わるようにその間、3~5軒が組になって、お参りをするそうです。(同じような四十八夜念仏というのが、餅耕地でもありました)
お堂の脇には二体彫られた石仏もあります。
そして、日枝神社で解散しました。
後日、やまあそさんから頂いた養父町史のコピーによると、この日枝神社ももとは、寺ヶ平の西にある足谷(町史には大谷とかいてある)の突き当たりから少し上がった場所にすこし平坦地があり、それを宮山というそうです。
日枝神社では、「お当祭り」があります。これは宮山にあったときに生まれたであろうといわれています。
宮山に伸座されていた日枝神社は、洪水で流失して現在の地に留まり、摂社妙見宮は養父町稲津に流れ付き、その渕を「妙見渕」といい、ごく最近まで、「稲津のお祭りは船谷のお祭りと同日でなければならない」とされていたそうです。
2、3年前に、祖母が『やぶの民話』にある「岩見重太郎のヒヒ退治」というところをよんだときに、この日枝神社の関係を少し話してくれました。これ以上書くと脱線してしまうので、またの機会としましょう。
船谷には、船着場といわれるところもあるし、とても興味の尽きない場所です。
そもそも、船谷の名前の由来は「但馬一円が泥海であって、交通は船に頼っていたころのある日、ご神船の一双が流出した。その船が見つかった場所を船谷と名づけたのが、宮屋敷の麓・船谷である。」といわれています。(松明を持ち、失った船を捜すお祭りが大屋町宮本の御井神社であり、「まいっそ祭り」といわれています。「まいっそ」=「もう一艘ない」と夜をこめて探したのが始まりだそうです。)
しばらくして、ゆうすけくんから大日如来のあったところの戦時中ころかと思われる写真が送られてきました。
中央から少し右に見える、小屋は大日如来の石塔です。
この険しい船谷の山はなかなか優良な牛の産地だったそうです。
そして、牧草地の上はカヤ刈り場だったそうです。
また、おばちゃん(祖父の妹)からは「このあたりは、ぜんまいがよく採れて、とりに行ったもんです」と聞きました。
この写真を見せたら、ここで生まれ育った祖母はなつかしいというかもしれませんね。
ちなみにこの写真をとったのは、私たちの曽祖父・理之助さんです。
養父の市場に飾るために写真の中の人物も牛もカメラ目線だそうです。
船谷の放牧の風景とカヤ刈り場、そして、山菜取りの話を聞いて、作畑でいったら、千ヶ峰を思い出しました。
現在はハイカーと猟師ぐらいしか山へ行きませんが、かつて、石風呂の谷は同じように放牧され、カヤ刈りもされていました。そのことは作畑の祖父が時々思い出したように詳しく語ってくれます。祖母は千ヶ峰で山菜取りに夢中になり、迷子になったということもたまに話してくれます。
今は、地元の人は行かないようになってしまっている山も、かつては麓の村の人にとっては、なくてはならないもので、生活の一部であったことがとてもよくわかった山でした。
最近の私に忘れかけていたものを、いろいろと思い出させてくれた山歩きでした。
ありがとう、ゆうすけ君。
by deity_river
| 2012-05-03 20:41
| しゅみ